2015年7月31日金曜日

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 (講談社現代新書)



 前もって言っておこう。これからここに書くことは感想であって、解説ではない。学術書の類いについての読書感想は、ややもすると解説もどきになってしまう。そのことを念頭に置き、忌避するためにも、予めここに宣言しておくのである。

 なお動的平衡とは何かということについて、ここでは敢えて言及しない。興味を持っている方は、実際に本書をあたって頂きたい。

 クリック、ワトソン、ウィルキンズ、許すまじ。かの者たちは、謂わば盗人であり、真に評価されるべきは、ロザリンド・フランクリン女史ではないか。斯様な不正が罷り通ってよいものか。否、断じてよいわけがない。

 物理科学の学問世界とは、純粋な探究心と純真無垢なつぶらな瞳を持つ科学者たちが日夜、あれやこれやと切磋琢磨しているところだと思い込んでいた私が愚かであった。社会のしがらみは、科学の世界をも蝕んでいたのだ。

 生命はエントロピー増大の法則に抗う。そしてその抗うシステムそのものが生命だと言える。生命とはミクロなパーツから成る精巧な模型のようなものではないのだ。

 エントロピー増大の法則に抗うため、すなわち秩序を保つために、生物は多くの原子や分子から成る必然性があった。その当然の帰結として、生物は原子や分子よりはるかに大きなサイズとなった。

 多くの人間から成る社会も、一つの生物だと言われることがある。確かによく似ている。そして社会に生きる人間は、時に一つの歯車として喩えられる。だが歯車ならば、まだいいではないか。もし一つでも歯車がなければ、機械は動かなくなる。それは機械という大きなシステムにとって、歯車は存在価値があるということだ。


 実際には一個人がいようがいまいが、社会はあり続ける。如何なる国際的要人であれ、いないならいないなりに世界は機能するようにできている。ノックアウトマウスの実験結果と同じだ。確かにまるで生物のようだ。

 社会という生物も存在し続けるため、動的平衡を保っていると言える。
 そして生命というシステムそのものは、いまだ人間の手に負えない不可侵の領域にある。なのに人類が、社会という生物に支配されているというのは、どこか滑稽ではあるまいか。

読書期間:始)2015.1.6 ~ 終)1.12
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