2014年11月28日金曜日

「遺書 五人の若者が残した最期の言葉」verb (幻冬舎文庫)



 遺書を残して自殺した若者たちのドキュメントです。
 五人の若者を自殺に至らしめた内容の内訳を書いてみます。いじめを苦にして自殺をした者が三人、うつでの自殺が一人、疑われることの息苦しさと人を疑う罪悪感からの自殺が一人です。

 まずこのドキュメントの狙いと、実際に書かれている内容が擦れ違っている点が気になりました。
 自殺を選ぶことで残された人たちがどんな思いをするか、そういう現実的な想像を掻き立てることで、自殺を考えている人を思い留まらせたいのか、それとも遺書という形で死んで訴える内容は素晴らしいと賛美しているのか、その辺りがややぼやけています。
 これは各話が別々の人に執筆されたためなのかもしれません。要は趣旨が今ひとつ統一されていないと感じました。

 特に窃盗の疑いを掛けられる息苦しさと戦いつつ、いったい他の誰が犯人なのかと近しい人たちを疑うことに疲れて自殺を選んだ若者の話に至っては、自業自得の観さえあります。
 なのに、その彼が残した遺書によって、残された人々が前向きに生きていく姿が描かれていて、読者に自殺を推奨したいのかとさえ思えました。

 過去、実際に窃盗を働いたことで、彼にはその前科がつきました。そうなれば、周囲から真っ先に疑われるのは世の常です。そのことを知らなくても、現実はそうなのです。そしてその事実を受け止めきれずに苦しむのは、本人の過去の浅はかさ由来のものです。
 また他の近しい人たちを疑うことに耐え兼ねて、といった部分は甚だ怪しいです。ですが、本人はすでに自殺を選んでしまったのだから、真実は闇の中ですけども。

 あと、うつ病を発症して自殺を選んだという話も、いささか誰が悪いというものではありません。自分の理想の姿とかけ離れてしまっている現実の自分の姿を受け入れられずに死を選ぶ、とはまた贅沢なものです。

 ここで長くなりますが「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一 講談社現代新書)から、以下を引用させて頂きます。

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 (講談社現代新書) - 読書記録






「科学者はその常として自分の思考に固執する。仮に自分の思いと異なるデータが得られた場合、まずは観測の方法が正しくなかったのだと考える。自分の思考が間違っているとは考えない。それ故、自分の思いと合致するデータを求めて観測または実験を繰り返す。
 しかし固執した思考はその常として幻想である。だから一向に合致するデータが得られることはない。科学者はその常としてますます固執する」

「仮説と実験データとの間に齟齬が生じた時、仮説は正しいのに実験が正しくないから思い通りのデータが出ないと考えるか、そもそも自分の仮説が正しくないから、それに沿ったデータが出ないと考えるかは、まさに研究者の膂力が問われる局面である。実験が上手くいかないという見かけ上の状況はいずれも同じだから。ここでも知的であることの最低条件は自己懐疑ができるかどうかということになる」

 ここで「科学者」を「若者」あるいは「人」、「データ」「実験データ」を「現実」、「思い」「思考」を「理想」、「実験」「観測」を「行動選択」、「仮説」を「人生観」と置き換えてみては、どうでしょうか。
 まったく違う趣旨の本からの引用ですけども、理想と現実の狭間で苦しむ人の原因が分かったような気がしてきます。


 いじめによる明確な、加害者と被害者という関係の中で自殺を選んだ三人に対しては、同情の念が起こります。
 ただ自殺するほどなのかと思うのは、私が大人になって多少苦痛に対しての抵抗力が身についたからなのでしょうか。
 とりあえず私の時は、いじめに遭いそうな局面で、咄嗟に教室の椅子をぶん投げて、机なんかを蹴り倒したら、後でみんな謝って来ましたけども。

 そう考えると、人に何かを伝えるためには死ぬことではなくて、思っていることや自分の感情を、相手に思いっ切りぶつけることが必要なのかもしれません。
 時には多少荒っぽい伝え方をされないと、人は人の思っていること、感じていることに気付けないのかもしれません。

 すなわち遺書では真意は伝わらないのではないか、と言いたいのです。
 どんなにいいことを書いたとしても、どんなに熱心に書いたとしても、本人がいなければ、常に生きて伝え続けていかなければ、その人の思うところは決して伝わらないと思うのです。

2014年11月24日月曜日

「夜は短し歩けよ乙女」森見登美彦 (角川文庫)



 この本を読んで、私は大学時代に経験した、いろいろなことを思い出しました。何を隠そう、私には大学に通うために京都で一人暮らしを始め、後に十年を越えて彼の地に住み続けた経験があるのです。その上で、実によく京都の町とそこに生きる人々が描かれた作品だと思いました。

 私が京都にいた時も李白のような人物がいて、当時の私は飲み比べでよく負かされておりました。古本市には出掛けたことはありません。ですが、そこで催される希少本を巡る熱い戦いの噂はかねがね耳にしていました。ですので、なるほど、このようにしてみんなは希少本を手に入れていたのかと、その実情を垣間見た思いです。

 私の通った大学は京都大学ではありませんでしたが、やはり学園祭というものはどこも似たり寄ったりで同じようですね。こんな混沌とした学園祭は、現実的にありえないのではなかろうかと危惧したほどでしたので、少し安心しました。

 主な登場人物たちも恐らくモデルがいるのではないでしょうか。その中には、もしかすると私もどこかで出会っている人もいるかもしれません。木屋町で飲んでいる時に、よくふわふわ浮き上がっている浴衣の人物を見掛けたような気がします。またお酒の勢いなのか酔った振りなのか、女性のおっぱいを揉みしだくような中年男性もしばしば見掛けました。

 そうです。何を隠そう、京都にいた頃の私は、黒髪の乙女が大人の世界と憧れ、飛び込んだ夜の世界の住人だったのです。本当に毎夜、お酒の勢いを借りた百鬼夜行が繰り広げられたものです。


 ただこの作品の嘘っぽいところを挙げるなら、それは黒髪の乙女の存在でしょうか。私はあんなに可愛らしい子に出会った覚えがありません。どれくらい酒を飲むのかと訊かれ、むんと胸を張って「そこにお酒のある限り」と答える場面の何と愛らしいことか。揉まれる程度の大きさはあるとはいえ、胸を張れるほどなのかどうか甚だ怪しいというのに、自信をもって胸を張るなんて、素晴らしいではありませんか。ビバ、おっぱい。

 ですが、やはり京都で彼女のような女性にお会いした記憶はまったくありません。こんなにも可愛い女性なら、一度会えば忘れるはずがありません。ということは、黒髪の乙女は作者の想像上の女性なのでしょう。そこが堪らなく残念で仕方ありません。

2014年11月15日土曜日

「フィッシュストーリー」伊坂幸太郎 (新潮文庫)



伊坂氏には、あまり短編・中編を書かない印象があります。
そんな彼の、四編からなる中・短編集です。
四編の内、一般的に面白いと評価されるとすれば、『フィッシュストーリー』と『ポテチ』の二編ではないかと思います。

伊坂ファンであれば、『オーデュボンの祈り』の登場人物・伊藤の「人間の悪い部分は動物と異なるところ全部だ」という台詞と、「私」と名乗る男の「意味を求めるのも人間だけかもしれない」という台詞が、対となって出てくる『動物園のエンジン』に、もしかすると何かしら感銘を受けるかもしれません。

また伊坂作品に度々登場する黒澤という男のファンであれば、『サクリファイス』で彼のクールさに惚れ直すかもしれません。
ですが、飽くまで一般的に、誰が読んでも面白いと評価されるとすれば、やはり先に挙げた二編かと思います。

個人的には『フィッシュストーリー』よりも『ポテチ』の方が好みのお話です。
内容的には、伊坂氏の『重力ピエロ』と被っているところがあります。またこういう感じか、とも思う一方、やっぱりいいなぁという読後感も得られました。

『ポテチ』には、クールな黒澤も登場します。
ただし『サクリファイス』と違って、こちらでは話の脇をきっちり固めてくれる脇役をこなすに留まっています。
主役は、お人好しの空き巣・今村とその不貞の彼女・大西です。

伊坂氏が、不貞の女性を主役の座に据えるのは珍しいです。
個人的には嫌いなタイプです。
最後まで彼女には感情移入できませんでした。

今村の方はと言うと、大西とは対照的です。
人を食った語りの映える伊坂氏の文章と、今村のキャラが見事にマッチしています。
今まで目立つことのなかった端役が、ここに来て大躍進です。
どうして空き巣なんかすることになったんですかって、小一時間ほど問い詰めたいです。

私の感想では、話の内容がさっぱりわからないですと? わからないように書いているので、これでいいのです。


伊坂氏の描く悪役には二通りあります。
とても悪い悪人と、あまり悪くない悪人です。
前者はまさに悪で、許しがたい感情に襲われます。
後者は、悪人というよりもダークヒーローであったり、間抜けなダークヒーローだったりします。
伊坂氏にはこれからも、いろんな悪人をたくさん書いてもらいたいものです。