2014年10月29日水曜日

「しゃばけ」畠中恵 (新潮文庫)



 妖怪の登場する、ファンタジー時代小説といった趣きの作品です。
 一般的に妖怪と言えば悪さをするもの、というイメージが付き纏います。ですが本作に登場する妖怪たちは、悪者というよりも、むしろ中立的な立場の精霊のような存在に近いかもしれません。

 とはいえ、中にはやはり人間に害を為すものもいて、主人公の一太郎は、そのような妖怪と戦うことになります。
 というのも、半ば自分の特殊な生い立ちが原因で、妖怪が人々に害を為すという事態になったのだから、それを自ら収拾するのは道理だ、という理屈で戦います。
 ですが一方で、もし彼が所詮は他人事と、その厄介事に関わることを避けるような態度をとれば、彼は自分の存在を人間界から消されることになる、という半ば退治を強いられている部分もあります。
 思うに、この辺りの理屈に著者の考えが見え隠れしているような気がします。自分のケツは自分で拭け。それができないのなら、人間社会から消えてしまえ。そんな思いを感じました。


 本筋とは関係のない部分では、世の中は中々思い通りにいかない、などと小難しいことを一太郎とその友人の栄吉は話します。この辺りの内容が本筋ともっと絡んでくると、もう少し深みのある面白さが出てきたかと思います。

 もう少しで付喪神になれそうだったのになれなかった墨壺は、世の中が思い通りにならずに未練を残しました。そうして諦め切れずに世の中に対して抗いました。
 人間の方はどうかというと、行儀良く現状に甘んじる姿が描かれます。この辺りは対照的な姿勢が見られます。ですが、実際には何かを諦め切れずに、人様に迷惑を掛けてでも、思い通りにならない世の中に対して抗うような人間は結構います。
 そういった人に相応しい妖怪の名を付けて、祓い落とす。そうなれば、黒い着物を身に纏った憑き物落しの人の出番です。もちろんこの作品には登場しませんけども。

 今回の墨壺同様に何かに執着し、諦め切れない人にこの墨壺は魔が差すような形で取り憑き、悪さを仕出かす、という筋での妖怪退治の話の方が、全体的な話の収まりはよかったかもしれません。

2014年10月23日木曜日

「解」「解+」加藤智大 (批評社)



 秋葉原無差別殺傷事件について、加害者加藤智大死刑囚本人がその背景と経緯について説明をする、という意図で書かれたものです。
 一体どういう理由で、秋葉原無差別殺傷事件という凄惨な事件を起こそうと考えたのか、その犯罪者心理を知りたく思い読んでみました。

 全体的には、論理的に話を読み進めることができました。納得や理解もできる部分も多いです。というよりも、個人的には基本的に当たり前と考えていることばかりです。例えば腹を立てた際に相手に怪我を負わせる、あるいはもっと進めて「殺す」というイメージや思いを抱くことなど日常茶飯事です。
 「他人」についての認識なんて、どんな人間か分からないのだから、こちらが自発的にその人物像を想像しない限り、野良犬や野良猫あるいは風景や景色の一部と大差ありません。

 でも多くの人は、だからといって実際に犯罪行為を実行したりしません。その「やらない理由」については、彼も言及しています。つまり「やらない理由」がある、「やる理由」よりも「やらない理由」を選んだ方が得な状況だからやらない、ということです。この辺りも、十分理解も納得もできる範囲です。

 「自分の思い通りにならない」という問題にぶつかった際の対処法などにも、特に問題はありません。もしこの点で問題があるとすれば、彼は一つ勘違いをしていることがあるということです。
 「世の中は、思い通りにならないことだらけ」と彼は言います。この「世の中」についての解釈は間違いです。「世の中は思い通りにならないもの」であって、思い通りになることなど最初から何一つないのです。人が手前勝手に、思い通りになったと思い込んでいたり、理想と現実の妥協点を見つけて折り合いをつけているだけです。それを彼は思い通りになることもある、と勘違いしています。

 物を右から左に動かすのとは、訳が違うのです。「世の中」とは自分も含めた「人の集まり」です。「世の中」を「物」として見ている人には、それは思い通りになるものだと思えてしまうのかもしれません。

 ですが、こういう勘違いは多くの人がしていることだとも思えます。ですから、この点が事件の背景とはなりません。

 マスコミの報道や警察の作成する供述調書などについての説明は、なるほどと思えます。ですが、マスコミの報道や警察による供述調書について疑念を抱いている人間にしてみれば、その説明は今更どうでもよかったります。それ故に、この本を手に取ったのですから。

 以上、掻い摘んでみても、内容の大部分が理解も納得もできる説明になっています。それでも最終的に、この事件については加藤智大個人の人間性に問題があった、としか私には判断のしようがありません。



 私がこの本を読んでいて一番引っ掛かったのは「痛みを与えて改心させる」という考え方です。何様ですか。間違いを改めさせる、その上から目線が一番気に入りません。職場の人間を困らせることで、間違いに気付かせようと仕事を辞めた話とか、どれだけ自分を過大評価しているのでしょうか。

 人一人、それもバイトや派遣レベルの人間の穴埋めなんて、どこの職場でも大したことありません。そんなことにも気付かなかったのでしょうか。まず彼のこういうところが一点、問題のあるところ、と考えていいと思います。

 そして彼は言います。当時の自分には「やらない理由」がなく、懲役を避けるための「やる理由」があった、だから死刑になる事件を起こした、と。「やらない理由」がなかった、あるいは目に入らなかったのなら仕方がありません。

 でも、その「やらない理由」がなくなってしまったのは、誰のせいですか? 「やらない理由」が目に入らないほど追い詰められてしまったのは、誰のせいですか? そういう状況になったのは、結局は全て自分の人間性のせいじゃないですか。

 一般論として彼は、同様の事件をいわゆる「普通」の人が起こしうると主張します。ですが、実際にそんな頻繁に同様の事件が発生しているのでしょうか。

 もし起こっていないなら、どうして起こらないのか? その予備軍の人たちには「やらない理由」があって、またキレるポイントが、あるいは相手を傷つける方法のイメージが自分とは違うから、ということなのでしょうか。ならば、それは最早一般論ではありません。加藤智大だから、このような事件をイメージして、加藤智大だから、状況的に実行せざるを得なくなってしまった、と考える方が自然です。

 自分は「社会的に許されないこと」をしたとは理解しつつも、恐らく彼は心のどこかで、選び取った方法は正しい方法ではなかったけども自分は間違えていない、考え方としては基本的に他の人だって同じだと、いまだに思っていると私は推測します。彼は大バカ野郎です。

 最後に私は「普通」という言葉が嫌いです。一部で使ってしまったので、私なりにその定義を注釈しておこうと思います。「普通」=「社会的に許容される範囲・程度・基準」と考えます。上記における「社会」とは規模を問わず、人と人との付き合い・繋がり・コミュニティを指し、その社会の規模や人が変わることで、「普通」の内容も変化するものと考えています。また社会的に許容されない事件を起こした人も「普通」ではない、ということになります。

「天使と悪魔」ダン・ブラウン (角川文庫)



 『ダヴィンチ・コード』が面白かったので、そのシリーズ第一作を読んでみることにしました。
 このシリーズ、あるいはこの著者の特長なのでしょうか、ごく短時間の内に主人公のロバート・ラングドンが巻き込まれる形で、物語が進展していきます。内容について話すと、どうしてもネタバレ的なものになってしまうので伏せておきます。

 今回の感想では二点について挙げてみようと思います。まず一点目は、登場人物たちが常に動いているという点です。これが物語に勢いをつけているように思いました。
 落ち着きなく動きながら話すという訳ではなく、話している人の動きを描写することで、動きがあるように感じられます。とはいえ、登場人物たちがみんな、派手なジェスチャーやボディランゲージを示すという訳ではありません。話している際の姿勢であったり、顔や身体の向きであったり、些細な描写です。
 日本の小説だと台詞は台詞だけ、あるいは誰が口にしたかなどが添えられるだけです。または直接的な心理描写も加えられることもあります。ですが、実際にどう動いているのか分からない描写が多いと思います。むしろ会話している際は、静止した状態でやり取りされている印象すら受けます。

 人は動いている物に注意が向く習性があるようです。動く物があると、つい目で追ってしまうという衝動です。これは現実的な物理的なものだけに限られたものではなく、脳内でイメージされたものに対しても有効なのかもしれません。
 結果として、小説などでもただ人物たちに会話させるのではなく、動きを絡ませて会話させると躍動感が生まれるのではないか、という一つの仮説に辿り着きました。実際の現実においても、ただ立ち話をするにしろ何かしら動いている、あるいは何らかの所作を伴っているはずです。それらの何気ない所作こそが、生き物の生き物らしさなのかもしれません。


 二点目について、宗教と科学の対立という構図についてです。西洋では宗教といえば主にキリスト教を指していて、果たして日本の宗教観で『天使と悪魔』で語られる「対立」という概念とその歴史が正しく認識されるのかは、また別の問題になります。
 日本ではただ何となく、科学と宗教は相容れないもののような感じがする、という程度なのではないかという気がします。
 ひとまずは、それで十分だと思います。そしてこの相反する二者とよく似た「科学と芸術」について、明治の科学者、寺田寅彦は自身の随筆の中で言及していることがあります。「科学者と芸術家」と題された一編で、科学と芸術は方法が異なるだけで、どちらも同じ世界を説明あるいは表現しようとしているものではないか、という考え方です。
 この一編は、ただ世界の説明あるいは表現に関する言語の差異が、私たちに一つの錯覚を齎しているのではないか、と主張するものではないでしょうか。すなわち、科学と芸術の二者は対立するものだ、という錯覚を齎しているのではないか、ということです。
 この趣旨に「科学と宗教」を当て嵌めて考えてみると、一見全く相容れない「世界のあり方」を説いているようで、実は同じことを異なる角度と言語で説いているだけ、とも考えられるのではないでしょうか。

 『天使と悪魔』のラストにおいては、その辺りのことは結局置き去りにされてしまった観があります。そこが少し残念に思いました。とはいえ、二千年の歴史をひっくり返すような大風呂敷のモチーフです。これと同じことを日本の小説でしようとすると、仏教とか神道が出てくるのでしょうか。でも、ここまでスリリングな展開にはならないだろうと思います。というのは、やはり日本の小説が概ね静かなやり取りで物語が進むからなのかな、と第一点目のことが頭に引っ掛かるのでした。

2014年10月16日木曜日

「大人もぞっとする 原典 日本昔ばなし」由良 弥生 (王様文庫)



 まず、この作品は怪談集の類いではありません。
 日本の昔話は今に伝わる形になることで、人間の怖さ・醜さを別の形に変えてカムフラージュされている、そのカムフラージュを著者なりの解釈で、本来どんな話だったのか解き明かしましょう、といった趣旨の内容です。

 個人的には「かぐや姫」の解釈が、なかなかいいのではないかと思いました。現在とは異なる慣わしを理解していないと、この話は良く分からない箇所が多い話だと思います。
 例えば五人のやんごとない位の男たちから求婚されて、それを断るために無理な難題を提案するなんて、何と我儘な女だろう、竹取りの翁もいくら可愛い娘だからといって、姫を甘やかしすぎなのではないか、果ては帝の求めすらも断るとは何と高飛車な女だろう、当時の慣わしや因習、風俗、時代背景、それらを何も知らないと、このような誤解が生じてしまうのが、「かぐや姫」なのではないでしょうか。

 当時の地方の村社会は、女性が家督を継ぐ母系社会であったということ、さらに彼女には不思議な力があり、巫女的職務に就いていたのではないかと想像できます。それに対して、求婚してくる男性たちは、その地位を考慮すれば、婿入りのできる立場ではありません。また巫女という職務にある以上、帝以外の求婚を受けることもできない、ということが挙げられます。

 ところが当時の帝周辺といえば、平安貴族の権力争いの絶えないところです。そのようなところに、何の後ろ盾もないかぐや姫が、帝の求めに応じて足を踏み入れれば、権力を争う貴族たちによって潰されることは火を見るより明らかだったのではないか。それ故にかぐや姫は、帝の求めにも応じることができなかったのだろう、というのが著者の見解のようです。
 そして彼女が月に帰っていったという件は、かぐや姫の死を婉曲的に伝えたものだったのではないか、という指摘も私は妥当のように思えます。


 もちろん、ただのファンタジー的な創作だったのかもしれません。ですが、かぐや姫の一見するとただの我儘に見える振る舞い一つにしても、母系社会という慣わしの説明がなければ、恐らく現代の人たちは、彼女の姿を見誤ってしまうのではないでしょうか。
 昔話に限らず、物語を読み解くという作業は、時代を読み解く作業なのかもしれません。

2014年10月10日金曜日

「羊たちの沈黙」トマス・ハリス (新潮文庫)



 先に映画を観た上で、その魅力に捕らえられました。そして小説の方も読了しての感想です。
 この作品は小説よりも、映画の方が優秀な作品のように思えます。それにしても映画と小説で、何故にこうも後味が違うのでしょう。
 筋や結末は当然同じです。大きく違うのは人物の描写に関してかと思われます。映像化されたレクター博士と文字だけで描かれたレクター博士。私には、前者のレクター博士の方が魅力的に思えました。

 この差は何なのでしょうか。一つは、映画の方はできるだけ博士についての説明的な描写が省略され、観る者の想像力に任せたところが大きいのではないかと思いました。「見えないもの」に対して人の心に湧く畏怖の念、そのようなものが映画のレクター博士にはあったように思われます。
 対して小説の方は、彼の天才的な推理が、最終的には経験とその記憶に拠ったもの、という結論が示されます。もちろんそれだけでは、作品中の彼の様々な言動は説明し尽くせません。ただバッファロゥ・ビルの事件についてだけで考えると、その種明かしは酷い、と思ってしまうのです。


 映画の彼を観ていると、安楽椅子探偵的な頭脳の持ち主が、その才能を犯罪に活かしているように見えてしまいます。そして、そういう場面に魅了されることを期待している自分がいることに気付きます。
 本来ならば憎むべき犯罪者であるのに、です。たとえ犯罪者でもカッコいい、と思ってしまう自分がいるのですね。だからといって、自分も彼を真似て犯罪に手を染めてみよう、などとは思っていませんので、ご安心下さい。

 小説の方のレクター博士には、そこまでの魅力が感じられませんでした。確かに、凄く恐ろしい犯罪者であることには違いないのです。ですが、ただそれだけなんです。これはたとえば、彼の心理についての詳細な描写が言葉で為されてしまったため、なのかもしれません。彼の行動の理由や心理、思惑が言葉で明示されることで、畏怖の念よりも俗な人物という印象を、読者に与えてしまったのかもしれません。

 すでに私の手元には『ハンニバル』がありますので、是非とも映画に勝るとも劣らない出来であることを願います。