2014年8月23日土曜日

「ウロボロスの偽書」竹本健治 (講談社ノベルス)


 この作品は、推理小説ではありません。私が思うに、広義の「ミステリー」に含まれるものです。 「ミステリー」ではあるけれども、推理小説ではないのです。
 作者は、読者に対して多くを示唆し、訴え掛けてきます。その様は、時には謎掛けの態です。その中で二つ程、私が捉え得た部分について、思うところを述べていきます。

 まず一つ目、「ミステリー」について、です。英語の「ミステリー」を直訳すると、その意味は「謎」です。一方、日本における、小説ジャンルとして言われる「ミステリー」は、「推理小説」を指すのが一般的です。ですが言葉だけに注目して、「謎」と「推理小説」の両者の意味や概念を煮詰めて考えていくと、両者は全く正反対の位置にあるものだと分かります。

 「謎」が指し示すのは、不思議な、あるいは人智の及ばない事柄です。対して「推理小説」の終着点は、「謎」と思える事柄の解明です。「謎」と思えていたものを、「謎」でなくならせる作業です。そして「謎」が解き明かされた時点で、「推理小説」はもう「謎」(ミステリー)ではなくなってしまいます。

 思うに、純粋なミステリーとは、最終的にどうしても解けない「謎」がなければ、「ミステリー」とは呼べないのではないでしょうか。もし「ミステリー」と云う言葉だけを捉えるなら、それに対応する小説ジャンルは、本来なら怪異を物語る、所謂「怪談」が相応しいように思われます。


 次は、小説のルールについて、です。小説に限らず、創作活動においてルールはない、と私は考えます。逆にルールと云う枠組みがあれば、それは創作活動ではなくゲームです。オセロ、将棋、囲碁などと同類です。ゲームには、個人の解釈や基準を持ち込めません。例えば、オセロ・将棋・囲碁で、打つところに困ったからと云って、盤外に駒や石を置くことは許されません。「自分ルール」だと言って、規定のルールを曲げられません。独自の解釈や基準を持ち込めば、ゲームは成立しないものです。

 小説にルールがあるなら唯一、文字を使って表現すること、でしょう。表現する内容は、個人の裁量に委ねられるべきです。但しジャンルが細分化され、どんなものを書くかが規定されるようになると、形式が生まれます。
 ゲームで言えば、定石に対応するものです。時に形式は、ルールのような枠を作ります。こうするべきだ、ああするべきだ、という声などがそうです。ですが、厳密にはそれはルールではありません。ゆえに、時には意外な手を打つのも効果的です。
 ルールがあるのはゲームです。定石はゲームの中で生まれます。つまり小説における定石は、ゲームの世界から創作の世界に忍び込んで、小説を束縛している、ということなのだと思います。
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