2014年8月30日土曜日

「日本語の論理」外山滋比古 (中公文庫)



 日本語についての学術的エッセイと呼ぶのが妥当でしょうか。少なくとも論文とは趣が異なると思います。
 著名な「思考の整理学」を著した方の文章なので、とても読みやすい内容です。それでいて、とても的を射た内容でもあります。

 日本語は論理的な文章を作るのには向いていないのか? この自問に対して、著者は日本語そのものに問題があるのではないと述べます。日本語そのものよりも、日本人が歴史の中で培ってきた考え方や物事に対しての姿勢、そして日本の社会とその歴史に原因がある、と述べます。

 私は、文章とは言語による世界構造の再構築である、と考えています。こう考えると、日本人はこれまで世界の表面を観察し、その心的印象を表現することには長けている、と言えるのではないでしょうか。

 逆にくどい説明は日本では好まれません。また書くのも苦手のようです。具体的には法律や憲法など、読み手次第で幅を持って別の解釈が成立してはいけないような文章です。別の解釈がされないように配慮すると、どうしてもくどい言い回しになります。これが日本人の感性に反発するようです。

 これは「つうと言えば、かあ」という人間関係が重視される日本社会独特のものなのかもしれません。読み手が相手の言わんとするところを汲み取って、足らない分を自らその意味を補足する。そうすることで、少ない言葉で意思疎通を図ることを良しとする社会です。これは家族など、親密な関係にある人間が集まる社会で初めて成立する考え方です。


 論理的な文章とは、意味の解釈に幅を与えず、誰が読んでも同じ内容として伝わるものであることが望ましい訳です。そのためには言わんとすることを明確にしておく必要があります。そしてそれを伝えるための、文章全体の構成を考える必要があります。この考え方ができれば、日本語でも十分論理的な文章は作れるはずです。

 さらに先に述べた日本語の特色は、西欧の言語と比べて劣ったものではないということにも注意しなければいけません。短歌や俳句に見られる掛詞、すなわちダブルミーニングの技術は、少ない言葉で意思疎通を図る言語社会だからこそ大きく進化できたものなのですから。大切なのは、言語そのものの性質とその成立背景に注意を向けて、言葉を考え、操ることだと思います。

2014年8月23日土曜日

「ウロボロスの偽書」竹本健治 (講談社ノベルス)


 この作品は、推理小説ではありません。私が思うに、広義の「ミステリー」に含まれるものです。 「ミステリー」ではあるけれども、推理小説ではないのです。
 作者は、読者に対して多くを示唆し、訴え掛けてきます。その様は、時には謎掛けの態です。その中で二つ程、私が捉え得た部分について、思うところを述べていきます。

 まず一つ目、「ミステリー」について、です。英語の「ミステリー」を直訳すると、その意味は「謎」です。一方、日本における、小説ジャンルとして言われる「ミステリー」は、「推理小説」を指すのが一般的です。ですが言葉だけに注目して、「謎」と「推理小説」の両者の意味や概念を煮詰めて考えていくと、両者は全く正反対の位置にあるものだと分かります。

 「謎」が指し示すのは、不思議な、あるいは人智の及ばない事柄です。対して「推理小説」の終着点は、「謎」と思える事柄の解明です。「謎」と思えていたものを、「謎」でなくならせる作業です。そして「謎」が解き明かされた時点で、「推理小説」はもう「謎」(ミステリー)ではなくなってしまいます。

 思うに、純粋なミステリーとは、最終的にどうしても解けない「謎」がなければ、「ミステリー」とは呼べないのではないでしょうか。もし「ミステリー」と云う言葉だけを捉えるなら、それに対応する小説ジャンルは、本来なら怪異を物語る、所謂「怪談」が相応しいように思われます。


 次は、小説のルールについて、です。小説に限らず、創作活動においてルールはない、と私は考えます。逆にルールと云う枠組みがあれば、それは創作活動ではなくゲームです。オセロ、将棋、囲碁などと同類です。ゲームには、個人の解釈や基準を持ち込めません。例えば、オセロ・将棋・囲碁で、打つところに困ったからと云って、盤外に駒や石を置くことは許されません。「自分ルール」だと言って、規定のルールを曲げられません。独自の解釈や基準を持ち込めば、ゲームは成立しないものです。

 小説にルールがあるなら唯一、文字を使って表現すること、でしょう。表現する内容は、個人の裁量に委ねられるべきです。但しジャンルが細分化され、どんなものを書くかが規定されるようになると、形式が生まれます。
 ゲームで言えば、定石に対応するものです。時に形式は、ルールのような枠を作ります。こうするべきだ、ああするべきだ、という声などがそうです。ですが、厳密にはそれはルールではありません。ゆえに、時には意外な手を打つのも効果的です。
 ルールがあるのはゲームです。定石はゲームの中で生まれます。つまり小説における定石は、ゲームの世界から創作の世界に忍び込んで、小説を束縛している、ということなのだと思います。

2014年8月18日月曜日

「邪魅の雫」京極夏彦 (講談社文庫)



 前回の「陰摩羅鬼の瑕」に続き、探偵榎木津礼次郎が全然活躍しないお話です。まぁ彼には「百器徒然袋」と云う、ちゃんとした活躍の場が他に用意されていますので、別に構わないかもしれませんね。

 今回は主に青木刑事の視点で事件が描かれ、益田の視点で得られた情報が加わるという態です。青木の職業柄、事件は地道に情報を掻き集める形で進行していきます。ややもすると本格推理小説の方向で行くのかと思わせます。事実、トリックの謎解きに関しては本格推理風味です。ただ謎解きの切り口が京極堂ならではなのです。

 「塗仏の宴」で引っ掛かった物語の説得力の力なさは、今回は実際にあった事件を取り扱うことできっちり挽回できているように思われました。実際にあった帝銀事件や七三一部隊のあらましを物語ることで、特殊な毒物の存在が現実味を帯びて語られます。

 事件の黒幕とも云うべき人物の動機が、非常に人間的と言いますか、そんな理由で取り返しのつかないところまで事件を大きくしてしまうものかと、その部分がどうにも現実味に乏しい感じを受けました。動機自体は現実的なのですが、事件の規模と動機とを比較した時に違和感を覚えてしまいます。

 今回は憑き物を落とすと云うより、各関係者がしていた勘違いを解き明かすと云う内容です。物足りなさを感じます。本格推理小説風味なところといい、今までの百鬼夜行シリーズとは毛色の異なる作品だと思います。トリックを解き明かすことと事件を解決することとは別物である、というこれまでの姿勢が崩れてしまっています。

 その原因はやはり本格推理小説風に、トリックに比重を置いた話作りにしてしまったせいかと思います。そしてそのトリックの内容についても今までなら学術的な解明がされていました。ですが、今回はトリックにしろ動機にしろ、そういった部分がありません。


 「邪魅の雫」で目を留めるべき点は、「1」までの冒頭数頁の内容だと思います。
 一個人とは、砂浜や砂漠の砂一粒に過ぎない。そして砂一粒を以って、砂浜や砂漠とは呼ばない。砂浜や砂漠自体にとっては砂一粒など、あっても無くても如何でも構わない。問題は、その際限のない砂粒の「量」なのである。海も水一滴で海とは呼ばない。水一滴は、海を構成する要素ではあるけれども、その一滴で海とは言わない。その「量」こそが問題なのだ。際限のない量の砂粒がある様子を以って、砂浜や砂漠と呼び、際限のない量の水がある様子を以って、海と呼ぶ。世界も同様で、一個人は世界の構成要素の一つではあっても、世界そのものではない。問題はその「量」であり、際限のないその量を以って、世界と呼ぶのだ。だが己を世界そのものだと勘違いしている、砂粒同然の人間の何と多いことか。

 この辺りが一番唸らされる、百鬼夜行シリーズらしい部分でした。

2014年8月10日日曜日

「陰摩羅鬼の瑕」京極夏彦 (講談社文庫)



 ある男の花嫁が婚礼の翌日に必ず殺害されて発見されます。ある男はかつて伯爵と呼ばれた元華族で高貴なお方です。この程度の認識で今回の作品を読み始めたものですから、私はついグリム童話の「青髭」のような話を連想してしまいました。蓋を開けてみれば、当たらずも遠からずと云うような内容で、物語の冒頭で犯人がわかってしまった次第です。

 問題は動機に当たる部分です。この点に関しては読み進めることでしか解釈できない部分です。ですが、どうなのでしょう。身近に「死」を学習できない環境だからと云って、人は本当に「死」というものを理解できないものなのでしょうか。伯爵の場合、屋敷に多くの蔵書を抱えています。そして、それらから彼は世界の事物について知識を得たというのなら、たとえ「死」がわからなくても「剥製」についての知識は得られたのではないでしょうか。「剥製」についての知識が得られたならば、当然彼が家族と見なしていた鳥達が何なのかも知り得たのではないのか、と思う次第です。


 今回扱われる大きな部分は「死生観」についてだと思われます。「死」とは何なのか。これについては生者の側から見てであれば論じることはできます。ですが、「死者の側から見た『死』」については生者の想像でしか語れません。決して生者にはその真実を知り得ない事柄、それが「死」なのでしょう。所謂「死後の世界」や「死後の在り方」などと云うものは全て生者の想像に過ぎません。

 人は古来、わからない「もの」や「こと」に恐れを感じるようにできています。そしてそれを克服するためにわからない「もの」や「こと」に名を与え、形を与えてきたと言えます。そして現実という事物は本来混沌として、そこにただ在るものです。言葉とはその混沌とした現実の事物一つ一つに名を与え、形や構造を与えるものです。

 現実の事象とは、思うに空間的並存状態にあるものです。それらを時間的継起状態に移し替えて解釈し、概念として捉える作業こそが「言葉」の働きだと言えます。それによって物の形や構造・状態、事物の因果関係を見出し、人は現実を説明・解釈できるように加工することで現実に対する恐れから逃れていた訳です。

 「死」という現実もまた生者にとってはわからないことの一つです。「死」という現実に対して、人は「死の概念」を与えることで「死」を解釈しているだけです。そして解釈というものは決して一つとは限らず、人によって違ってくるものだと考えるならば、「死」の解釈すなわち「死の概念」も人それぞれに違ってくる、という話だったと思いました。

2014年8月1日金曜日

「塗仏の宴 宴の支度/宴の始末」京極夏彦 (講談社文庫)



 物語の絡繰りとしての理屈は分かるのです。ですが、どうも現実味に乏しいお話という感想が出てきます。
 もちろん小説ですから、全て虚構の世界であることは十分に承知しています。とは云え、一村分の人間に暗示を施して村から立ち去らせ、その無人となった村に今度は他所から連れて来た大勢の人間を住まわせる。それも、ずっとそこに住んでいたと云う暗示を施した上で住まわせる、という話はあまりに荒唐無稽ではないでしょうか。
 旧日本陸軍の力量がそれを可能にさせたと云う根拠も、矢張り無理があるように思われます。


 今回、駄作とも言える出来映えになってしまった原因の一つには、旧日本陸軍の脅威的な科学力や実行力を示すような史実が何も描かれていないことではないかと思います。物語の根拠や説得力に関わる重要な部分ですから、それは何としても描いて欲しかったと思います。

 次に佐伯家の構成やそこで起きた事件について。これらは本作の謎解き部分に関わるため、冒頭から明確に「どこそこでこう云った事件があった」と説明的な記述をすることは困難です。
 ですが家族構成を登場人物の視点で語らせる形で読者に示す方法は些か悪手かと思います。人付き合いの親疎の程度には個人差があるものです。そのように偏りがある形で語られれば、読者にしても各人物を同平面上に等しく並べて眺めることができません。見方によっては妙手とも思われるのですが、しかし私にはそうは思えません。


 まずは佐伯家の家族構成を偏りなく詳らかに描写すべきだったと思います。
登場人物の視点、それも本来であれば他の者によって語られるべき当事者の視点では、それは不可能です。
物事の内側からは物事の外観は見えないものなのです。

 今回は非常に単純な話を、長大な頁数を使って分かりにくく描かれただけのような読後感が残ります。いつもならもっと学術的なメッセージなりが話に盛り込まれてくるのが個人的には楽しみでしたので、本作では少しガッカリしました。