2014年6月25日水曜日

「今昔続百鬼‐雲」京極夏彦 (講談社ノベルス)



 京極氏の連作小説です。舞台となるのは百鬼夜行シリーズと同じく、終戦後間もない昭和です。主人公は多々良勝五郎と云う妖怪研究家です。「岸涯小僧」「泥田坊」「手の目」「古庫裏婆」の四編です。

 主人公の多々良は基本的に活躍しません。所謂「事件」というものに関しては、全くの役立たずです。事件そっちのけで、やれ河童が出た、河童が犯人だ、やれ妖怪の仕業だと騒いでみたり、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」を開いては、件の妖怪画についての推理や考察を始めるのです。彼の頭の中は妖怪のことだけで、世俗的な所謂「事件」には興味を持ちません。なのに、何故か首を突っ込んできては巻き込まれます。果ては生命の危機にまで直面しますから、馬鹿としか言い様がありません。

 そんな主人公の物語で、一体どのように事件が解決されるのか。結論を先に言いますと、事件の方から勝手に解決に至ってしまいます。どの話のどの事件も、よくよく考えてみると、主人公が関わろうと関わらなくとも、遅かれ早かれ解決していたと思われるものばかりなのです。全く馬鹿馬鹿しい限りです。

 ですが舞台が例のシリーズと同じくしていることもあって、黒い着物の男が最後のお話で登場します。その男とは、知る人ぞ知るあの古本屋店主、つまり京極堂こと中禅寺秋彦のことです。「今昔続百鬼」の見所は、ほぼここに尽きます。憑き物落としで、いつものように事件を解決してしまいます。格好良いのです。


 多々良勝五郎は正直言ってどうでもいいです。格好良くもありませんし、デブで暑苦しいだけの妖怪薀蓄野郎です。但し、彼は百鬼夜行シリーズにも、少しだけ顔を出してきます。ですから京極堂のファンであれば、多々良という人物についての予備知識を仕入れる、あるいは百鬼夜行シリーズの一挿話として楽しむ、という読み方で楽しむのが妥当かと思います。

2014年6月20日金曜日

「屍鬼」小野不由美 (新潮文庫)



 「屍鬼」はスティーヴン・キング氏の「呪われた町(セイラムズ・ロット)」へのオマージュとして書かれた作品です。ですが、それが顕著なのは文庫では一巻の前半のみです。

 まず単純に両者を比較すると、小さな共同体に住む人々とそのありふれた日常を、浅く表面的に描写することで、どこにでもある田舎町と云った印象を読者に与えようとしている点は、両作品とも同じです。ところが「呪われた町」で吸血鬼と対決するのは、共同体の中で別段特殊な位置でもない者達で、対して「屍鬼」では共同体の中心的役割を担う人物達が、事に当たります。

 登場人物の質の差は、当然心情も含めた人物描写の質的な差に繋がります。「屍鬼」の登場人物達は、内面の多くを描かれ過ぎてしまっています。これではどこにでもありうる、と云う怖さは醸し出されません。多くを描くと云うことは、物事の抽象性を削ぎ、特殊にしていくと云う作業に他ならないからです。

 次に「屍鬼」では、医学的な裏付けを与えて、現代的な怖さに繋げようとする意図が汲めます。しかしこれが全然怖くありません。また裏付けそのものも中途半端で、何故「起き上がり」になってしまうのか? という部分が完全に放置されています。


 そもそも恐怖とは頭で理解して「ああ、怖い」と思うものではありません。むしろ逆で、目の前の現実に対して理解できないからこそ怖いと感じるものです。例えば呪いや祟りを怖く感じるのは、当事者がその対象になる理由やその仕組みが分からないからこそでしょう。その理由や仕組みが分かれば、怖くないのです。どう対処しようかと前向きに考えるだけです。事実、物語の村人達はそうして屍鬼達を駆逐していくのです。

 人は理解できない事物や現象に、恐怖を感じるものです。そういう意味でも「屍鬼」は、多くが描かれ過ぎたと云う観があります。

 何より致命的なのは、屍鬼一体につき人間六人程で吸血ローテーションを組めば、無駄な犠牲は出ないだろうというやり取りです。作中ではそのような取引や交渉は、最初から切り捨てられています。これはおかしいです。ここまで現実的要素を盛り込んでおいて、何故それをしないのか、と云う疑問が残ります。

 例えば感染性の不治の病に罹った人がいたとして、現代の日本という設定を踏まえると、何の救済も援助もなされないとは考え難いです。そして屍鬼とは医学的な視点で見れば、感染性の不治の「死という状態」が続く病とも取れなくはないのです。

 「屍鬼」は何も怖くありません。恐怖よりも、むしろ暴走する村人達の人間性の方に嫌悪感を覚えます。

2014年6月5日木曜日

「謎解きはディナーのあとで 2」東川篤哉 (小学館)



 気軽に読める推理小説です。まず深く考えさせられるような中味はありません。そうかと言って、飽くまで娯楽小説として読んだとしても、パッとしない読後感が残ります。執事影山と麗子嬢の掛け合いを楽しむ程度でしょうか。
 ですが、2巻目ということもあって、それも最早予定調和の観があってマンネリ化を感じます。あと体言止めの文章が多く、気取った感じが鼻につきます。

 全体的には軽めの本格推理小説の態ですが、偽証が推理要素として出てきては、推理のしようがありません。
 長編なら様々な証言の比較・検討があります。そこから、誰かが偽証しているという前提が成立して、誰がどんな偽証をしているのかと考えることも、その推理小説を楽しむ要素になりえます。
 ですが短編となると、そうも行きません。これが第一話「アリバイをご所望でございますか」の読後に思ったことです。ほぼ反則と言えるような展開でした。

 第二話「殺しの際は帽子をお忘れなく」は、無くなった帽子を巡る話になってしまっています。どんな帽子が盗まれたのかから始まり、何のために盗まれたのかという展開になります。
 この話の一番の問題は、あれだけいろいろと帽子について推理をしていたにも関わらず、盗まれた帽子以外の盗難物から犯人が捕まってしまうという結末でしょう。


 難癖をつければ全話に渡ってしまいます。そこで今度は、この小説のいいところに目を向けてみようと思います。
 活字が苦手、小説は難しい、そう思っている人のための、読書の入門書という位置付けなら、評価もできると思います。また予定調和な掛け合いも、好きな人は変わらず好きなはずです。

 個人的にこの作品について、一番の問題点ではないかと思うのは、娯楽小説であるのにドキドキもワクワクもハラハラもしないことです。この一言に尽きます。

2014年6月1日日曜日

「時計じかけのオレンジ 完全版」A・バージェス (ハヤカワepi文庫)



 近未来という異世界感を醸すためか、多くの造語や支離滅裂な文章が目につきます。この小説のテーマは本来、身近でより根源的な問題を扱ったものだと思います。ですので、先に挙げた造語や支離滅裂な文章は蛇足に思えます。
 この作品において、神への信仰とは善良であること、自発的に道徳的選択をすることを指していると思います。具体的な行動としては他者を傷つけないこと、殺さないことと云った至極単純な行為に凝縮されています。

 作品のボリュームが、主人公アレックスの暴力性や残虐性についての描写に、大半を占められています。とても残念です。ここまで描く必要性があったのか、疑問の余地が大いに残ります。

 逮捕され、収監されるに至ったアレックスは、洗脳的手法によって一切の暴力的行為を制限されるようになります。もしも他者に害を為そうとすれば、条件反射によって、云い様のない肉体的苦痛に襲われます。肉体的苦痛によって、道徳的行為を選択するように強要される訳です。

 このように道徳的選択を強制的に行わせるのはおかしい、というのが作者の言わんとする処だと思われます。そして人は成長し大人になるにつれて、社会の中で自発的に善良であろうと道徳的選択をするようになるものだ、と云った結論に至ります。

 要するに子供は善悪の分別がないものだけども、大人になれば自然と自発的に道徳的選択をするようになるものだ。それが本来的な善のあり方だ。何かに強制されて行う善には価値などない、と云うのが作者の思う処だと読み取れます。


 確かに社会と云うものは、罪を犯した者を排除したり否定しようとする外的システムのような一面を持っています。結果として罪を犯した者は、その社会では生き難くなります。そう云う社会の仕組みを、人は大人になるにつれて学習します。

 しかしそうだとすれば、一体どこからどこまでが自発的と呼ぶべきものなのでしょうか。
 そもそも道徳や倫理というものは、円滑な人間関係を築く上で、人と人との間に必然的に横たわってくるものです。言うまでもないことですが、人は個人単独では存在し得ないものだからです。
 そう考えると道徳とは、個人の意思や選択とは無関係に、元から外的強制力を伴ったものだと考えられます。つまり「自発的な道徳的選択」という言葉は、概念として既に破綻を来たしていることになります。
 言葉としては「外的強制力を無自覚に享受して行う選択」と言い換えた表現の方が、概念としては相応しく思われます。

 ならば結局のところアレックスは、否、人はどこまで行っても、他者から善なる行いを強要されているに過ぎないのかもしれません。