2014年12月10日水曜日

「東拘永夜抄」加藤智大 (批評社)



秋葉原連続殺傷事件の加藤智大死刑囚の著書、三冊目です。
これを読む前、先の二冊「解」と「解+」を読んでから、ずっと何かが引っ掛かっていました。

彼の自己分析や事件の説明は、部分的に見ていくと正鵠を射た、冷静な叙述のような印象を受けます。
また彼の説明の内容について、彼の考え方が好きじゃないといった好みの問題と摩り替えられても困る。
事実そうであったのだから、そうだと説明するしかしようがない、といった主張も理解の余地はあります。
だけど私の中では、何かがずっと引っ掛かっていたのです。

本書では先の二冊の説明内容が、物語風というスタイルで書かれています。
まず「解」では、彼はなりすましと荒らしに対して痛み(しつけ)を与えることが目的で、その手段としての事件を実行したという説明をしていました。

これが後の「解+」では、事件を起こすに至った理由をもう一度振り返って、説明をします。
彼は事件を起こすことを躊躇していたものの、すでに犯行予告の書き込みを掲示板に済ませていました。
そのため、その罪での懲役に服すのではないかと考えます。
そして懲役に服すことによって孤立して生きるくらいなら、死刑にされて死んだ方がマシ、という思いが自分の背中を押した、と説明を改めています。

なお彼は本書でも警察の取り調べに対して批判的です。
供述調書の作成中、車やナイフの説明に「人を殺すため」という文言を加えることを強いられた、と言います。
ここで彼と警察の間に言葉の齟齬が発生しています。

一般的に考えても「ため」という言葉は目的を意味しており、彼の目的は人を殺すことではなく、「解」では「しつけ」のため、「解+」では懲役による孤立を回避するため、ということになります。
つまり、その目的達成の手段として事件を起こした、という理屈です。

目的達成の手段が他にも思い付いていたり、なりすましや荒らしがもっと早くに反省していれば、秋葉原連続殺傷事件という手段は必要ではなかった、と説明します。

私はここで、警察の肩を持つ形になりますけれども、自分なりの意見を口にしてみたいと思います。
以下、例え話として続けます。紙を切るというのが目的で、そのための手段として鋏(はさみ)を使おうとしたとします。
ですが、その鋏は自作しなければいけない、とします。
そのために材料や部品を集める。このような場合、鋏という手段を完成させるための「ため」は、紙を切る「ため」でしょうか。

ここは大局的な目的達成を目指す意味合いの「ため」と、手段の完成という「小目的」を目指す意味合いの「ため」を区別するべきでしょう。

すなわち先の例え話と彼の説明を照らし合わせると、「紙を切る」=「しつけ」あるいは「孤立回避」、「鋏」=「事件」、「材料や部品」=「ナイフ、車」という形で対応します。

何のためにナイフを買って、何のために車を借りたのかと問われて、彼は大局的な目的達成のためと説明し、警察の方は手段の完成という局地的な目的としての説明を求めた、と言えます。

意識的なのか無意識的なのかはともかく、このような言葉遊びめいた説明をすることで、彼は相手を煙に巻くような印象を他者に与え、その結果、不快感まで覚えさせているのではないでしょうか。
彼の著書を読むと、このようなもやもやっとした不快感に見舞われます。
そして私もそこに何かずっと引っ掛かりを覚えていたわけです。


そして最後に、多くの方が引っ掛かりを覚えているのではないか、と思われる点について申し上げます。
彼は、悪いことをした相手を改心させるために、その相手を痛い目に遭わせる(しつける)、と説明します。
そして同様のことを、みんなも日常的に行っているではないかと言います。

ここで私は問います。なぜ改心させようとするのか、何のために改心させるのか、と。
また一方で、仮に悪戯をした子供が親に躾けられて、その時に子供が親に謝るのは何故か、何のためか、と問います。

彼は、人はみんな大なり小なり自分の「思い通りにする」ために、人を痛い目に遭わせているではないか、と言います。
私は答えます。
問題は「思い通り」の中身ではないですか、と。
物事を言葉によって抽出、すなわち抽象化して骨だけにしてしまっているから、原型がわかりにくいのです。
一段階、抽象の梯子を降りて、肉がある状態でなければ物事の本来の姿は見えないのです。

子供が親に謝るのは痛いからですか?
子供は痛いことから逃れるために謝るのですか?
良好な関係を築きたい、続けたいからではないのですか?
加藤智大、君は相手と良好な関係を築こうと、続けようと痛い目に遭わせましたか?
その相手はあなたと良好な関係を望んでいましたか?

2014年12月4日木曜日

「図書館戦争」有川浩 (角川文庫)



 シリーズ物はあまり読みません。人気漫画の連載と同じでキリがないですから。しかもシリーズが終了する、其れすなわち人気薄のため、というケースが多いです。そうするとシリーズ全体では、尻すぼみな結末しか待っていない、ということが多々あるからです。

 そんな私が「図書館戦争」(シリーズ第一作)を読んで得た感想は、こういうのもいいな、面白いな、といったものでした。
 漫画は読んでも小説は読まないという人の中には、小説はまだ敷居の高い、お堅いジャンルのように感じる方がいるかもしれません。読み手が減れば、必然的に書き手は減ります。
 漫画は低俗なもの、と思っている狂育熱心な親御さんもいらっしゃると思います。ですけども、漫画が多くの人を楽しませているのも事実です。

 多くの漫画の読者の中には、自分も漫画を描いてみたい、こんな感じなら自分でも描けるんじゃないか、やれるんじゃないかと、ちょっとした遊び程度で漫画を描き始める人もいます。その中から優れた描き手が現れることで、漫画の人気はさらに高まりました。また人気と共に漫画の内容や質も、玉石が交じりつつも発展・向上してきたと思われます。参画人口の多さが、あるジャンルの文化の発展・向上に繋がると言えるのではないでしょうか。

 小説にしても同じで、読者が増えるなら、まずは読みやすく面白い、ただそれだけでいいのではないかと思います。読者の増加がそのまま優れた書き手の出現に繋がるとまでは言いませんけども、ある程度の裾野がなければ、次の担い手の育成すら困難です。
 以上のような理由も視野に入れて、「図書館戦争」は面白いと思えました。読者もこういう感じの話なら自分でも書けるかも、自分も書いてみたいという気になるのではないでしょうか。もちろん実際には難しいんでしょうけどもね。


 内容としては恋愛ものの筋と、表現の自由・言論の自由を巡って図書館と政府が対立し、抗争するという二重の筋から構成されます。前者はお約束的なシンプルな話ですし、後者もさほど深刻な話にまでは掘り下げられていないので、ファンタジー要素のないライトノベルのような感じで読めるのではないかと思います。
 若干、私の苦手な体言止めが目に付きましたけども、それを差し引いても、小説に苦手意識を持ってる人にお勧めできる本ではないかと思います。

2014年11月28日金曜日

「遺書 五人の若者が残した最期の言葉」verb (幻冬舎文庫)



 遺書を残して自殺した若者たちのドキュメントです。
 五人の若者を自殺に至らしめた内容の内訳を書いてみます。いじめを苦にして自殺をした者が三人、うつでの自殺が一人、疑われることの息苦しさと人を疑う罪悪感からの自殺が一人です。

 まずこのドキュメントの狙いと、実際に書かれている内容が擦れ違っている点が気になりました。
 自殺を選ぶことで残された人たちがどんな思いをするか、そういう現実的な想像を掻き立てることで、自殺を考えている人を思い留まらせたいのか、それとも遺書という形で死んで訴える内容は素晴らしいと賛美しているのか、その辺りがややぼやけています。
 これは各話が別々の人に執筆されたためなのかもしれません。要は趣旨が今ひとつ統一されていないと感じました。

 特に窃盗の疑いを掛けられる息苦しさと戦いつつ、いったい他の誰が犯人なのかと近しい人たちを疑うことに疲れて自殺を選んだ若者の話に至っては、自業自得の観さえあります。
 なのに、その彼が残した遺書によって、残された人々が前向きに生きていく姿が描かれていて、読者に自殺を推奨したいのかとさえ思えました。

 過去、実際に窃盗を働いたことで、彼にはその前科がつきました。そうなれば、周囲から真っ先に疑われるのは世の常です。そのことを知らなくても、現実はそうなのです。そしてその事実を受け止めきれずに苦しむのは、本人の過去の浅はかさ由来のものです。
 また他の近しい人たちを疑うことに耐え兼ねて、といった部分は甚だ怪しいです。ですが、本人はすでに自殺を選んでしまったのだから、真実は闇の中ですけども。

 あと、うつ病を発症して自殺を選んだという話も、いささか誰が悪いというものではありません。自分の理想の姿とかけ離れてしまっている現実の自分の姿を受け入れられずに死を選ぶ、とはまた贅沢なものです。

 ここで長くなりますが「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一 講談社現代新書)から、以下を引用させて頂きます。

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 (講談社現代新書) - 読書記録






「科学者はその常として自分の思考に固執する。仮に自分の思いと異なるデータが得られた場合、まずは観測の方法が正しくなかったのだと考える。自分の思考が間違っているとは考えない。それ故、自分の思いと合致するデータを求めて観測または実験を繰り返す。
 しかし固執した思考はその常として幻想である。だから一向に合致するデータが得られることはない。科学者はその常としてますます固執する」

「仮説と実験データとの間に齟齬が生じた時、仮説は正しいのに実験が正しくないから思い通りのデータが出ないと考えるか、そもそも自分の仮説が正しくないから、それに沿ったデータが出ないと考えるかは、まさに研究者の膂力が問われる局面である。実験が上手くいかないという見かけ上の状況はいずれも同じだから。ここでも知的であることの最低条件は自己懐疑ができるかどうかということになる」

 ここで「科学者」を「若者」あるいは「人」、「データ」「実験データ」を「現実」、「思い」「思考」を「理想」、「実験」「観測」を「行動選択」、「仮説」を「人生観」と置き換えてみては、どうでしょうか。
 まったく違う趣旨の本からの引用ですけども、理想と現実の狭間で苦しむ人の原因が分かったような気がしてきます。


 いじめによる明確な、加害者と被害者という関係の中で自殺を選んだ三人に対しては、同情の念が起こります。
 ただ自殺するほどなのかと思うのは、私が大人になって多少苦痛に対しての抵抗力が身についたからなのでしょうか。
 とりあえず私の時は、いじめに遭いそうな局面で、咄嗟に教室の椅子をぶん投げて、机なんかを蹴り倒したら、後でみんな謝って来ましたけども。

 そう考えると、人に何かを伝えるためには死ぬことではなくて、思っていることや自分の感情を、相手に思いっ切りぶつけることが必要なのかもしれません。
 時には多少荒っぽい伝え方をされないと、人は人の思っていること、感じていることに気付けないのかもしれません。

 すなわち遺書では真意は伝わらないのではないか、と言いたいのです。
 どんなにいいことを書いたとしても、どんなに熱心に書いたとしても、本人がいなければ、常に生きて伝え続けていかなければ、その人の思うところは決して伝わらないと思うのです。

2014年11月24日月曜日

「夜は短し歩けよ乙女」森見登美彦 (角川文庫)



 この本を読んで、私は大学時代に経験した、いろいろなことを思い出しました。何を隠そう、私には大学に通うために京都で一人暮らしを始め、後に十年を越えて彼の地に住み続けた経験があるのです。その上で、実によく京都の町とそこに生きる人々が描かれた作品だと思いました。

 私が京都にいた時も李白のような人物がいて、当時の私は飲み比べでよく負かされておりました。古本市には出掛けたことはありません。ですが、そこで催される希少本を巡る熱い戦いの噂はかねがね耳にしていました。ですので、なるほど、このようにしてみんなは希少本を手に入れていたのかと、その実情を垣間見た思いです。

 私の通った大学は京都大学ではありませんでしたが、やはり学園祭というものはどこも似たり寄ったりで同じようですね。こんな混沌とした学園祭は、現実的にありえないのではなかろうかと危惧したほどでしたので、少し安心しました。

 主な登場人物たちも恐らくモデルがいるのではないでしょうか。その中には、もしかすると私もどこかで出会っている人もいるかもしれません。木屋町で飲んでいる時に、よくふわふわ浮き上がっている浴衣の人物を見掛けたような気がします。またお酒の勢いなのか酔った振りなのか、女性のおっぱいを揉みしだくような中年男性もしばしば見掛けました。

 そうです。何を隠そう、京都にいた頃の私は、黒髪の乙女が大人の世界と憧れ、飛び込んだ夜の世界の住人だったのです。本当に毎夜、お酒の勢いを借りた百鬼夜行が繰り広げられたものです。


 ただこの作品の嘘っぽいところを挙げるなら、それは黒髪の乙女の存在でしょうか。私はあんなに可愛らしい子に出会った覚えがありません。どれくらい酒を飲むのかと訊かれ、むんと胸を張って「そこにお酒のある限り」と答える場面の何と愛らしいことか。揉まれる程度の大きさはあるとはいえ、胸を張れるほどなのかどうか甚だ怪しいというのに、自信をもって胸を張るなんて、素晴らしいではありませんか。ビバ、おっぱい。

 ですが、やはり京都で彼女のような女性にお会いした記憶はまったくありません。こんなにも可愛い女性なら、一度会えば忘れるはずがありません。ということは、黒髪の乙女は作者の想像上の女性なのでしょう。そこが堪らなく残念で仕方ありません。

2014年11月15日土曜日

「フィッシュストーリー」伊坂幸太郎 (新潮文庫)



伊坂氏には、あまり短編・中編を書かない印象があります。
そんな彼の、四編からなる中・短編集です。
四編の内、一般的に面白いと評価されるとすれば、『フィッシュストーリー』と『ポテチ』の二編ではないかと思います。

伊坂ファンであれば、『オーデュボンの祈り』の登場人物・伊藤の「人間の悪い部分は動物と異なるところ全部だ」という台詞と、「私」と名乗る男の「意味を求めるのも人間だけかもしれない」という台詞が、対となって出てくる『動物園のエンジン』に、もしかすると何かしら感銘を受けるかもしれません。

また伊坂作品に度々登場する黒澤という男のファンであれば、『サクリファイス』で彼のクールさに惚れ直すかもしれません。
ですが、飽くまで一般的に、誰が読んでも面白いと評価されるとすれば、やはり先に挙げた二編かと思います。

個人的には『フィッシュストーリー』よりも『ポテチ』の方が好みのお話です。
内容的には、伊坂氏の『重力ピエロ』と被っているところがあります。またこういう感じか、とも思う一方、やっぱりいいなぁという読後感も得られました。

『ポテチ』には、クールな黒澤も登場します。
ただし『サクリファイス』と違って、こちらでは話の脇をきっちり固めてくれる脇役をこなすに留まっています。
主役は、お人好しの空き巣・今村とその不貞の彼女・大西です。

伊坂氏が、不貞の女性を主役の座に据えるのは珍しいです。
個人的には嫌いなタイプです。
最後まで彼女には感情移入できませんでした。

今村の方はと言うと、大西とは対照的です。
人を食った語りの映える伊坂氏の文章と、今村のキャラが見事にマッチしています。
今まで目立つことのなかった端役が、ここに来て大躍進です。
どうして空き巣なんかすることになったんですかって、小一時間ほど問い詰めたいです。

私の感想では、話の内容がさっぱりわからないですと? わからないように書いているので、これでいいのです。


伊坂氏の描く悪役には二通りあります。
とても悪い悪人と、あまり悪くない悪人です。
前者はまさに悪で、許しがたい感情に襲われます。
後者は、悪人というよりもダークヒーローであったり、間抜けなダークヒーローだったりします。
伊坂氏にはこれからも、いろんな悪人をたくさん書いてもらいたいものです。