2013年10月20日日曜日

「李陵・山月記」中島敦 (新潮文庫)



 表題作の2編以外に短編2作を含んだ、新潮社から出ているものを読みました。

 「山月記」は人が虎になるお話、「李陵」は辺境で敵軍の捕虜になった人のお話、「名人伝」は弓の修行をする人のお話、「弟子」は孔子の弟子、子路のお話です。
 どれも中国の古典に題材をとったものです。どの作品も太平洋戦争の最中にあった作者の複雑な心情を、古典になぞらえて表していることがありありと見て取れます。個人的には「山月記」と「弟子」が好きです。

 「山月記」に於いて、虎となった俊才・李徴とはすなわち中島敦自身を指していると思います。そして、その彼が「虎」になってしまった理由が語られます。「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」がその原因だと語ります。

 「尊大な羞恥心」とは、自分の才能不足が露呈してしまうことを恐れ、、それ故に努力を惜しむ態度です。「臆病な自尊心」とは、かと云って自ら俗物凡人の類だと潔く認めることもできない気持ちです。その二つの気持ちがない交ぜになったまま、彼はただ世間を遠ざけてしまうだけでした。その結果、その2つの気持ちはどんどんと大きくなりました。

 彼の云う「虎」とは、すなわち原因であるところの「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」そのものが元々猛獣であり、それが大きく育ちすぎてしまったために、最早自分を構成するものがそれだけになってしまった状態だということです。
 そして「虎」になってしまってから、才能に乏しくても弛まぬ努力で世に出たような人々を目にしては、もっと努力しておけばよかったと彼は嘆くのです。

 全く以って他人事ではありません。人生は何事も為さぬには余りに長い。しかし何事かを為すには余りにも短い。


 「弟子」について。
 私は実はあまり孔子が好きではありません。彼の今に伝わる言葉を見る度に、処世術に長けた人物という印象が何故か強く残るのです。つまり私という人間はそういう人間が好きではないと云うことなのでしょう。

 かと言って子路のような不器用で真っ直ぐな人間に共感するかと言えば、そうでもありません。
 孔子は勝てる戦だけしかしないタイプで、その時が訪れるまでは動かないと云う印象です。一方、子路は勝てないと分かっている戦でも戦って無駄死にするタイプです。

 私は勝てそうにない戦いを勝てるように策を練り、実際の戦いは誰かにお任せしたいタイプなのです。
 これはこれで人間的に問題がありそうです。ただ問題があるとすれば「実際の戦いは誰かにお任せしたい」と云う部分だろうと思います。自ら策を練り、その策を自ら実践できるように頑張りたいと思います。

2013年10月16日水曜日

「死神の精度」伊坂幸太郎 (文春文庫)



短編のお手本とも言えそうな完成度の連作短編小説です。
語り手は、千葉と名乗る死神です。
物語における死神の仕事は、七日後に死ぬ予定の人間を調査して、「死」を実行するのに適しているかどうかを判断し、その最終判断を上の部署に報告することです。
本作では、その調査の過程で出会う人々の、人生の一端をして、寓意的な物語が描かれます。

六編から成る中で、一番好きな話となると、「恋愛で死神」です。
この話に限らず、どの話も死神が登場する話なので、生や死について考えさせられる部分が少なくありません。
その中でもこの話が、最も正面から考えさせられると思うからです。

人は遅かれ早かれ、いずれ死にます。善人か悪人かを問わず、死は平等に誰にでも訪れます。
人の生には本来意味などありません。
その延長である死にも、当然意味はありません。
人はただ生まれてきて、ただ死んでいくだけです。

ですが、人は自分の生に何らかの意味がある、と思い込みたい生き物なのではないでしょうか。
生に意味があるのなら、その延長である死にも自ずと意味がある、という考えに至ります。
そう考えることで、人は恐るべき死を迎え入れられるようになるのではないでしょうか。

漠然と迎える死には、人は意味を見出せません。
生の単なる終焉として、ただ忌避するべきものとして捉えます。
ですが、何かのために己の意思で行動した結果として、死が訪れるような場合、人はそれまでの生に意味を見出せるのだと思います。
自分はこのために生まれてきたのだと。実際のその有無など関係なく、自分なりに意味付けできるかどうかが重要なのです。


全編に渡って、人間と死神の差を原因とした、物事の見え方や解釈の違いから生じる名言や迷言が笑いを誘います。
また死神にも個性のようなものがあるようで、千葉というキャラがまた面白さを引き立たせます。
六話目の「死神対老女」では、「人間と言うのは、眩しい時と笑う時に、似た表情になるんだな」と何とも感慨深い台詞を残して、最後を締め括るあたりなど、心憎いばかりの死神です。


2013年10月12日土曜日

「クラインの壺」岡嶋二人 (新潮文庫)


あらすじ
上杉彰彦はゲームブックの原作公募に、間違えて規定の四倍の枚数の原稿を書いて応募したが、選考委員から、「これほど膨大な分量を書ける熱意は十分、評価に値する。素晴らしい才能だ」と、認められるはずも無く、あっけなく失格となった。
だが上杉のこの作品をアーケードゲームの原作に使用したいという申し出をしてきた会社があった。
それが株式会社イプシロン・プロジェクトだった。

現実同様のシミュレートが体験できる疑似体験装置「クライン-2」を使った、今までにない全く新しいゲームの原作として使わせて欲しいというのが、その申し出の旨だった。

上杉彰彦は大いに喜んで契約し、原作者としてゲームのテストモニターにもなるのだが、ある日、もう一人のテストモニターが謎の失踪を遂げるのだった。

 「クラインの壺」という表題が示す通り、どちらが現実でどちらがゲームなのか判然としなくなる話です。文章は読みやすく、扱う内容も悪くないと思います。

 今から24年前の作品として考えると、完全な疑似体験装置という着想は当時は非常に斬新なものだったのではないでしょうか。
 事実、現在はこの手の着想を使った多くの作品が生まれています。そう考えるとこの「クラインの壺」は、一歩先行く作品だったと思います。今読んでも十分楽しめますからね。


 ただ後味がいまひとつといった結末と、丁寧に読めばきちんと手掛かりが残されてあり、どちらが現実なのか判る人には判るのではないか? という思いがするところが残念です。その謎の解き明かしを読者に委ねる形の小説だったのかもしれません。

 個人的には現実と仮想現実が裏返る箇所を、伏線を最後に回収する形で指摘する方が読者を驚かせることができたようにも思います。
 もちろんさりげない伏線と、劇的なその回収というのは非常にテクニカルなものなので、はい、そうですかと言ってできるものではないのでしょうけども。

2013年10月7日月曜日

「マリアビートル」伊坂幸太郎 (角川文庫)


あらすじ
東京発・盛岡行きの東北新幹線に乗り込み、指示された荷物を奪って次の上野駅で降りる。
ただそれだけの簡単な仕事のはずだった。
はずだったのだが……。
七尾が奪った荷物は、今一番仕事ができると言われるコンビの殺し屋、蜜柑と檸檬が運んでいたものだった。
そして七尾は不運にも上野で降りることはできなかった。
ひとまず荷物を隠してさらにもう一駅やりすごそうとしていたら、隠したはずの荷物が消えていた。
この荷物の奪い合いに首を突っ込んできたのが、王子という悪意の塊のような中学生。
東京発・盛岡行きの東北新幹線は、いつしか東京発・地獄行き新幹線へと変貌していたのだった。

殺し屋小説「グラスホッパー」の続編という触れ込みを耳にして、手に取りました。
前回の「グラスホッパー」はいまいちな感じだったので、あまり期待はしていなかったのですが、これはいいですね。
「グラスホッパー」とは段違いによくなっています。

話のテンポは「モダンタイムス」に近く、小刻みに話の小さな山がやってきます。
伏線の張り方と回収はいつも通り、隙がありません。

「グラスホッパー」の続編とは言っても、話は独立してますので、「マリアビートル」だけ読んでも楽しめます。
もちろん「グラスホッパー」を読んでおくと、一部の登場人物の背景を知ることができて、より深く楽しめるかと思います。

「グラスホッパー」伊坂幸太郎 (角川文庫) - 読書記録







これまでは伊坂幸太郎さんと言えば、「ゴールデンスランバー」か「モダンタイムス」が代表作という評価だったと思いますが、これからはこの「マリアビートル」がその座を奪うのではないか、というくらい面白かったです。

あと前作との時間の隔たりの中で、描写が大きく変化してますね。当時は持って回ったり、勿体ぶった情景描写などが多くて、話のテンポがあまりよくなかったと思うんです。
そういう描写がかなり簡略化されて、結果としてそれが読みやすさに繋がっているのかな、と感じています。


伊坂さんのここ最近の難点としては、今までの伊坂作品で登場したキャラと似たような人物ばかりになってきたことでしょうか。
人のすることですから、こういうマンネリ化というのはどうしようのないものなのかもしれません。
また伊坂さんはこれまで多くの作品を書いてきてますので、ある程度は書くテーマというのは絞られてると思うんですよね。

あの時のキャラで本当はここまで書きたかったけど、書けなかった。
今ならあのキャラにこういう結末を用意してやりたかった。
長く作家をしてると、そんな気持ちも湧いて来るんではないでしょうか。

それがあの王子という、人の悪意を集めて人形に塗り固めたような中学生だと思うんですよね。
彼は「オーデュポンの祈り」に出てきた城山に非常に良く似ているんです。
むしろ当時では城山を使って描き切れなかった悪意というものを、今回の「マリアビートル」で王子という少年を使って描こうとしたのではないかと。

そしてその王子が発した「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いに対しての鈴木の解答が秀逸なんですよね。
ここにその引用を書きたいところですが、数ページに渡る文章ですから、これは実際に手に取って読んでもらった方がいいかと思います。

いずれにせよ非常に面白く読めた一冊でした。

2013年10月3日木曜日

「黒祠の島」小野不由美 (新潮文庫)


あらすじ
失踪した女流作家・葛木志保を探して、式部剛は「夜叉島」と呼ばれる孤島へと辿り着いた。

そこは明治政府の祭政一致政策により、迷信や邪教として弾圧の対象とされた土俗的・民俗的信仰がいまもなお支配する土地であった。

島の者たちが信仰する神とは一体何なのか。
彼らは決してそのことを口にしようとはしない。

そしてこの島を訪れたはずの葛木志保は一体どこへ消えたのか。

 京極夏彦さんの「百鬼夜行シリーズ」のような、五行や仏教、伝承の類の宗教に関わる話がチラホラと出てきます。ですが、なぜ主人公がそのような知識を持ち合わせてるのかの説明はありません。このあたりはちょっと不親切ですね。

 他にもおかしな点は多々あります。まずいろいろ整理して考えてみます。
 3日で帰ると言って、そのまま失踪した葛木志保を主人公の式部は探しに来ています。まず失踪している時点で何かのトラブルに見舞われたのではないか、と想定して主人公は出て来ていると考えるのが一般的ではないでしょうか。
 そして失踪した葛木志保の、もはや廃屋となっている生家を訪れますが、そこで何者かの大量の血痕を目にします。この時になって主人公の式部は、探し人が深刻な事態に陥ったのではないかと考えます。

 え!? 今頃? 今頃になって、そう思うわけ? 血痕を見てはじめて「もしかして!? まさか!?」とか思ったわけですか? じゃあ、どうして探しに来たんですか。心配で探しに来たにしては悠長じゃないですか?

 三章までの時点でこの程度です。次の四章からは、辿り着いたその島で先日何者かが殺されたという話を聞きます。
 もちろんその何者かとは志保なんですが、被害者は本当に志保だったのか、犯人が誰なのかと考えて島を回っているにもかかわらず、悠長に観光気分で島の風習について訊ねている姿はやはりおかしいです。五行や仏教、伝承の類の話なんてどうでもいいじゃん。早く犯人捜せよ(笑)

 それが五章あたりです。明らかに、信仰に関わる謎と事件との絡め方が不自然すぎるんです。
 極めつけは最終章ですね。目の前で人が殺されるのを目撃して、衝撃を受けたにもかかわらず、その場から離れ、人里に着いた頃には完全に失念してるっておかしすぎるでしょ(笑)


 一点、よかったところを挙げると、後半の罪と罰に対する問答の部分でしょうか。加害者に事情があれば、罪は割り引かれるのか? というところですね。

 これに対して被害者が犯罪者であった場合、あるいは善良な者だった場合はどうなのか。つまり被害者が犯罪者だった場合は犯罪者への罰、善良な者であった場合は加害者の罪、という形で加害者の罪は軽くなったり重くなったりするべきなのだろうか。

 正解などない問いかもしれませんが、このような種類の問いを自身にぶつけて、自身なりの答えを作品にはっきりと反映させるという趣が強く出ていれば、もっと味わい深いものになったかもしれませんね。