2013年9月27日金曜日

「アルキメデスは手を汚さない」小峰元 (講談社文庫)


あらすじ
中絶手術後、少女は死んだ。父親の男が誰なのかは不明である。
少女は最後に「アルキメデス」と呟いただけだった。

彼女の葬儀が終わり、程なくして彼女のクラスで毒殺未遂事件が起き、とうとう学校に警察が乗り込んでくるようになった。

一連の事件は全くの無関係なようにも見えるのだが。
果たして事件の真相とは一体……。

 今から40年前に書かれた小説ですが、なかなか楽しめました。
 前半は非常に読みやすくて面白く感じていたのですが、徐々に若者のあざとい描写が鼻に付いてきます。ただ実際の高校生ってもっと酷いかもしれないとも思うので、これでもまだ可愛らしい方なのかもしれません。
 最後まで読んで感じたことは、青臭いガキどもの身勝手さに腹立たしい気持ちが膨れ上がり、救済などいらないのではないかとさえ思いました。

 ルキメデスは手を汚してないのでしょうか? 合法であれば手を汚したことにならないのでしょうか?

 彼らが手を汚していないというならば、柴本健次郎にしても手を汚していないことになります。健次郎のやったこと、そしてそのやり方が気に入らなくて制裁の対象とするのならば、結局彼ら自身も制裁の対象になります。
 つまり自分達は罰されること無く、大人たちは罰されるべきだという身勝手な主張だと言えるのではないでしょうか。この小説で描かれる少年達は、まるで自分達は誰にも一切の迷惑も掛けずに生きているような顔をしてるわけです。


 そんな彼らの中でただ一人、弁当の競り市を開いていた田中の終盤の発言は、確かに口にしているのは田中ですが、どう見ても大人からの指摘ですね。アルキメデスの人物像と彼の発明した数々は、どう見ても矛盾しているという指摘はまさにそうだと思いました。

 ですが私なら田中の提案する救済策には賛成しないでしょう。むしろ田中が危惧していた通りに事が運んで、その後の人生がやり直しできず、ひたすら悔悟の念に苛まれることを期待したいと思いました。

2013年9月20日金曜日

「共喰い」田中慎弥 (集英社文庫)



 芥川賞受賞後の著者会見で、もらって当然と言わんばかりのふてぶてしい態度をテレビのニュースなどで報じられたことと、それなりにインパクトのあるタイトルでそこそこ有名な小説ではないでしょうか。

 さて実際に読んでみた感想ですが、単純に面白くはないと思います。
 純文学なんだからそれは仕方が無い、と言われるかもしれませんが、純文学と呼ばれる小説の中にも話の筋が面白いものは、探せばいくらでも出てくるかと思います。

 そもそも純文学と大衆文学の境目というものが曖昧な気がします。
 芸術性を重視した小説が純文学と呼ばれるそうですが、小説の芸術性というものが何なのかよくわからないんです。

 小説での「芸術性」という言葉が指し示すものは一体何なのでしょうか。言葉の連なり、対象の写生的な描写、声に出して読んだ時の音の韻律、そういったものなのでしょうか。でもそういうものを追求したいなら、別に小説じゃなくってもいいんじゃないですかね。


 さて「共喰い」には表題作と「第三紀層の魚」の二編が収められています。順番に感想を書いていきます。

「共喰い」あらすじ
女を抱く時に相手を殴ることで快感を得る性癖を持つ父親と自分は同じなんだろうか。
女を殴りながらでなければ、自分もいずれセックスに満足できなくなるのではないかと、17歳の篠垣遠馬はそこはかとない不安を感じていた。

母親の仁子が家を出る時には、息子である遠馬を連れて行かなかった。
その理由は「お前はあの男の種じゃけえね」というものだった。

果たして親子の血は争えないものなのだろうか。

 まずタイトルの「共喰い」ですが、「鰻」に改題した方がいいと思うんですよ。別に共喰いと呼べるようなことは、物語の中では起こりませんでしたから。

 それにしても個人の性癖というものは遺伝レベルの問題なんでしょうかね。教育心理学の分野になってくるかと思うのですが、そういう趣味や嗜好性は育つ環境に左右されるもののような気がします。
 ただこの物語では環境に左右されるものだったとして、すでに手遅れで親とよく似た性癖などを不本意ながら持ってしまった場合、どうすればいいのかという遠馬の悩みが描かれています。

 そしてやたら鰻の描写が多く、男性器に見立てたりしているんですが、どうせそのように描くなら魚屋を営む仁子にその鰻の頭を捌いてもらえばいいと思いましたけどね。

 作者がどうして最後、短絡的な結末に導いたのかその意図はわかりません。

「第三紀層の魚」あらすじ
信道はチヌを釣り上げたかった。
曽祖父にチヌを見せてやりたかったのだ。
だがいまだにチヌと呼べるサイズは釣ったことがない。

曽祖父の語る戦争や炭坑の話は信道にはさっぱりわからないもので、曽祖父と信道とは釣りの話、正確にはチヌの話でしか繋がらなかった。

「床ずれが出来ると人間、長くない」とは母の言葉だったが、夏の終わり、曽祖父の背中に床ずれの痣が現れるようになった。

 まず信道に小学生らしさがあまりないのが気に入りません。
 読んでいて感じたのは人物全員が表情に乏しくて、ベタで黒く塗りつぶされたのっぺらぼうな顔に見えるんですね。喜怒哀楽の描写はちゃんとあるんですが、生きている人間のように感じません。

 この小説では何が言いたかったんでしょうね。お国のために戦った、またあるいは地の底深くまで潜って石炭を掘り出し、日本の復興に尽力した者への敬意を喚起したかったのでしょうか。どうもこの手の話は好きになれませんね。

2013年9月16日月曜日

「脳男」首藤瓜於 (講談社文庫)


あらすじ
連続爆破事件の犯人・緑川の逮捕を目前としていた茶屋であったが、不測の事態により取り逃がしてしまうことになる。
その不測の事態とは、謎だらけの男・鈴木一郎の出現であった。

鈴木一郎は逮捕後、新たに仕掛けられた爆弾の在り処を警察に供述したことから、爆破事件の共犯と目された。

だが、鈴木一郎の精神鑑定を担当することになった鷲谷真梨子には、彼の正体がただの爆弾犯とは思えなかった。

彼の正体を突き止めるため、真梨子は彼の過去を探ろうとするのだった。

 先に映画を観た上で、原作の小説はどんなものかと思い、手に取りました。
 ちなみに映画に対しての感想としては、日本では珍しくグロテスクなシーンが多く、全体的に感情移入や共感しにくいキャラが多かったという印象があります。

 日本ではグロテスクなシーンの多い映画は批判・非難の対象となりがちで、この映画も例に漏れることはありませんでしたが、個人的にはここまでやるかという感じで新鮮に感じました。

 小説の方は問題作だと言われているという話も耳にしました。ですが偉ぶって小難しいことを並べ立てて、小説は高尚なものと嘯いても仕方がありません。小説はあくまで娯楽であるべきだと思います。


 さて映画の原作となった小説の「脳男」の感想なんですが、映画とは全くの別物です。映画で盛り込まれていたグロテスクなシーンはほとんどありません。

 自閉症をはじめとした、脳神経科や精神科が取り扱う症状についての記述が多く、鈴木一郎はそのような疾患を持った人物として描かれています。

 正義とは何か? 悪とは何か? という問題にも触れているのですが、このあたりがどうもあやふやになったままで終わっています。

 そもそも鈴木一郎自体が、法で裁けない悪者を闇から闇へ葬るダークヒーローという感じではないんですね。手続きさえ踏めば法で裁けるという人間であっても殺害していきます。

 このようなヒーロー像は果たして如何なものなんでしょうか。例えばもし私が、夜中に騒音を撒き散らす暴走族の輩を、週末のいつもの走行コース上に待ち伏せして、ピアノ線を張ったり、凶器の類を持って不意打ちの形でボッコボコにしたとして、それでダークヒーローって呼んでもらえるんでしょうか。

 少し疑問ですよね。そういう行動を起こすに至った気持ちは理解されたとしても、だからといって許されたり、ましてやヒーロー扱いされることはありませんよね。

 確かに鈴木一郎は超人的な能力を持っていて、人質に取られた少女を助ける場面などは彼の能力無しでは不可能なお話です。
 ですが彼がすること、あるいはしようとすることの本質は、先に述べたようなことで、やろうと思えば誰にでも可能なことだったりします。そのような人物をその能力の特殊性だけを見て、ヒーロー扱いすることには甚だ疑問の余地が残るのではないかと思いました。

2013年9月9日月曜日

「厭な小説」京極夏彦 (祥伝社文庫)


あらすじ
カウンターに突っ伏した深谷は、酒のせいもあり呂律が回っていなかった。
「それは深谷君のせいじゃありません、あなたのおつむがお悪いんじゃないですか、 会社を思うならあんたが辞めろって、あの場で言ってくれればよかったじゃねえか」

馬鹿で無能な上司・亀井に対しての愚痴をこぼしていたはずだったのが、いつの間にか矛先が自分の方に向けられて高部は不快な気分になる。

――人の苦労も知らないで。
そんな不快な気分のまま帰宅し、玄関を開けると見知らぬ子供が立っていた。
何だか
――厭な子供だ。

「厭な子供」「厭な老人」「厭な扉」「厭な先祖」「厭な彼女」「厭な家」「厭な小説」
登場人物たちに次々と厭なことが起きる、七篇からなる厭な連作小説集。

 よくわからない。いや正確に言えばさっぱりわからない。いや、よくわからないから果たして「正確に」「わからない」と言えているのかすらも定かではない。
 理不尽とか不条理とか言うんだろうか。訳がわからない。訳がわからないから、先に進めばもう少し何かわかるかも知れないと読み進めてしまうのだが、やはりわからない。
 何なのだ、この小説は。


 いわゆる「世にも奇妙な物語」系の話ばかりなのですが、救いは一切ありません。ひたすら厭なことばかりが続きます。「厭なこと」の一つ一つは日常的によくある、どうでもいいような些細なことなのです。ですが、「厭な家」の殿村の台詞で言われてるように
「例えばその、鍵が開けにくいと腹を立てて玄関が狭いと文句を垂れて、そういう時に下駄箱に脛でもぶつけてみろ」
「それが毎日繰り返されたらどうだよ」

 いくら改善しても注意していたとしても、自分の意思とは無関係に厭なことが無限に繰り返されれば、どうでもいいような些細なことでも厭になります。
 そしてこの「厭な小説」に出てくる登場人物たちは、厭になって発狂したり自殺したり失踪するといった事態にまで発展していきます。

 あくまで作り話、「世にも奇妙な物語」系のお話だと言えばそうなんですが、恐らくそのような事態の実際の契機というのは、このようなどうでもいいような些細なことだったりするのではないでしょうか。

 ふと自分の周りをよくよく見渡してみると、どうでもいいような些細なことということで、普段はそれらから目を逸らしたり忘れていたりするだけで、厭なこと、厭と感じることばかりで満ち溢れているような気がします。

2013年9月5日木曜日

「覗き小平次」京極夏彦 (角川文庫)


あらすじ
木幡小平次は、生きながらにして死人のように辛気臭い。
役者であるが芝居が下手でどんな役も上手くこなせず、唯一幽霊役が絶品と評判ではあるが、それ以外はてんで話にならない。
家では口も利かず、女房が何をしようと見向きもしない。今では押入れに籠ったっきり、出てきもしない。連れ添って五年の女房に「死ねばいいのに」とまで罵られる始末である。
それでも小平次は、ただ押入れの中から、襖の隙間から見える世間をただ覗くだけだった。

 何の前情報もなく読んでみましたが、どいつもこいつもろくでなしですっきりしません。小平次のような動きのない人物を中心に据えて、話がどう展開するというのか序盤から不安な気持ちになりました。

 「巷説百物語」シリーズに登場する事触れの治平が出てきますが、そもそも治平は「巷説百物語」シリーズでも地味な人物で、悪を倒すような大立ち回りは似合いません。又市に至っては名前だけが登場するような恰好でした。

 ぶっちゃけた話、小平次は最後まで何もしません。登場する悪党のほとんどは、いわば己の業のままに死を迎えます。
 誰も活躍しない。スカッとしない。でも悪党どもは死んでいく。何とも不思議な物語です。


 小平次が後に沈むことになってしまう沼の水辺で、彼が治平と言葉を交わす場面が個人的には気に入っています。
 以下は二人のやり取りや治平の独白などを読んでの私なりの解釈です。

 人は役者でなくとも常日頃から自身を演じ、己はこうだと語り、世間と己を騙して生きている。そういう意味では人は誰でも役者なのだとも言えるかもしれない。

 演じ、語り、騙すのが苦手な人間はどうなるのか。動かず、厚みを持たず、ただそこにいるだけの存在のようなものになってしまう。
 つまりそれが小平次ということか、と。

 京極氏の作品を私が好むのは、こういったところなんですよね。ただ物語るのではなく、ちょろっと人間の本質的な何かについて言及してくるところがいいですね。