2013年8月12日月曜日

「死ねばいいのに」京極夏彦 (講談社文庫)


あらすじ
「話聞かして欲しいンすけど」
亜佐美という死んだ女について、そう尋ねる男ケンヤ。

凡そ人にものを尋ねる態度ではなく、言葉遣いもなっていない、不遜な若者である。

そもそも君は一体彼女の何なのかと問えば、知り合いだと言う。
それも4回しか会ったことがないらしい。

「俺、アサミのことあんま知らないンすよ。だから」

そう言っては亜佐美の派遣先の元上司、マンションの隣室に住む女、チンピラの彼氏、そして彼女の母親といった関係者一人一人の元を訪れては彼らを 不愉快にさせつつ、彼女のことについて教えてくれと尋ねるのだ。

彼らは不愉快ながらも渋々話していくのだが、どこかおかしい。何かがずれている。
そう思い始める頃、

――死ねばいいのに。

という言葉によって、ずれているのが自分だと気付かされる。

ケンヤは、そして彼女の関係者達は一体彼女の何を知っていたというのだろうか。

 まず「一人目」の冒頭を読んで、「どうにも感じの悪いチンピラっぽい若者が鼻につく話だな。こいつみたいな奴いるよね、死ねばいいのに」私はそんな風に思っていました。そして冒頭を流し読みする程度のつもりが、ぐいぐい引き込まれていきます。

 読み進める内に、「死ねばいいのに」という思いの向かう対象がずれていき、気付けばその呪いの言葉は、まさに読み手である自分に向けられている言葉なんじゃないかと感じてきます。

 じわじわと来ます。

 普段は意識せずに目を背けている、自分の厭な部分を胸元に、喉元に突きつけられているような感じがしてくるのです。なのに、読んでしまう。厭なのに。


 本作は、ブラッドピット主演の映画「セブン」でも扱われたキリスト教の「七つの大罪」がモチーフなのではないかと思っています。
 「二人目」「三人目」「四人目」までは、順に「嫉妬」「憤怒」「怠惰」かと解釈しました。「一人目」と「五人目」と「六人目」がわかりにくいのですが、「一人目」が「色欲」、「五人目」が「暴食」、「六人目」が「傲慢」と当て嵌められると思います。
 ところが本作は「六人目」までしかありません。最後の一つ、「強欲」はどこに……? もしかすると「七つの大罪」がモチーフという私の解釈が間違っていたのかもしれません。

 ところで映画「セブン」は「現代人の無関心」をテーマとしたものでした。
 本作「死ねばいいのに」では誰も亜佐美のことを知らず、話すのは自分のこと、不平や不満や愚痴ばかり。まさに無関心だったのでしょう。

 私自身、読んでいる最中は登場人物の不平や不満と似たようなものが自分にもあるなぁ、などと思ってしまいました。結局自分のことばかり考えていたような気がします。

 誰も亜佐美のことなんて知らない。知ろうともしないのです。読者ですら、です。

 もしも私の解釈が間違っていなければ、「強欲」の「七人目」は私も含めた読者自身だったのかもしれません。
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