2013年8月22日木曜日

「PK」伊坂幸太郎 (講談社文庫)


あらすじ
2012年、57歳にして大臣の職に就いたある政治家は、 2001年に行われたサッカーのワールドカップ予選のこと、 当時の小津選手のことが気になり、調査を進めさせていた。
当時の小津選手は間違いなく様子がおかしかった。
あの時のPKは外していてもおかしくはなかったはずだ。
しかし彼は見事にPKを成功させた。
小津選手に一体何があったのだろうか。
その後さまざまな憶測が飛び交うことになる小津選手のPKだったが、 10年も経った今頃になってそれを調査する政治家が抱える悩みとは。
『臆病は伝染する。そして、勇気も伝染する』
ある作家の言葉が、ある政治家の胸に音もなく静かに沁み込んで行く。

「PK」「超人」「密使」の中篇三篇で構成されている一冊です。 各話は独立していて、その一篇だけでも十分楽しめる内容になっていると思いますが、 部分的に繋がりがあったり、似ているが若干異なるという相違点を見つけながら読むのも また楽しいかと思います。

今までの伊坂氏の作品と様子が違うのは、大きく離れた時系列の話がどこで繋がり、 または交錯してくるのかという点で、今までの同時刻における並列的な群像劇とは一味違います。

「PK」 書籍のタイトルにもなっている「PK」では、 鬱憤の爆発と「伝染する勇気」が対の形で描かれています。

鬱憤の爆発とは、不安や鬱憤という陰鬱な思いがいずれ人々に悪意や敵意を持たせ、 自らの欲望と暴力衝動にのみ従い行動するようになる態を指しています。 そしてそれらの人々は「ひとりひとりはいい人たちだ」けれど、 「集団になると頭のない怪物だ」と表現されています。

陰鬱な思いに冒された人々が集まると、それは「臆病」の塊となり、 次々に他の人々に「臆病」が伝染していく、ということが描かれています。 そしてそれとは正反対に「勇気も伝染する」ということが、 「PK」では一番の主題になっていると思われます。「PK」の世界はいわば信念を曲げなかった人々が描かれた世界として私は読みました。

「超人」 「超人」では「勇気」について一つの形が示されています。 「間違いはあなたがそれを正すのを拒むまでは間違いとならない」 この格言が言わんとするところは、どんな人でも過ちを犯す、 だが大事なのは自分の過ちを認めることであり、それは何よりも難しいことだ、 と作中では言われています。そしてこの「超人」では、ある人物が過ちを認めない世界だったのが、 物語の終盤でサッカーの話題から過ちを認める世界に変化していく様が描かれています。

「密使」 この最後の一篇で「PK」と「超人」の各話が初めて繋がってきます。恐らく「超人」を読んでる途中で気付く人はとっくに「あれ?」と気付いていた謎についての 解き明かしの部分ですね。 より効果的な未来のやり方とは、果たして一体どのようなものだったのか、 気になって仕方がないですね。


全体を通しての感想としましては、各話が中篇のためか、大臣が具体的に何を決断したのか、 作家に改稿を促した者やサッカー選手の小津にPKの失敗を迫った者、 突然現れた青い服を着た男など、一体何者だったのかと思う人物たちが最後まで正体不明のままなので、人によっては消化不良を感じるかもしれません。

2013年8月17日土曜日

「グラスホッパー」伊坂幸太郎 (角川文庫)


あらすじ
妻を轢き逃げされ、復讐を目論んでいた鈴木、
依頼を受けて対象の人物を自殺させる殺し屋「鯨」、
ナイフを得意とする若き殺し屋「蝉」、
彼らはそれぞれの思惑から「押し屋」という殺し屋を追い始める。

彼らの物語が交錯する時、果たしてその辿り着く結末に
明るい未来はあるのだろうか。

冒頭では「ラッシュライフ」の時のような群像劇が始まりそうな予感を覚えますが、今回の大きな違いは主要な登場人物たちが皆、人の「死」に主体的に関わっていく役割を担っている点でしょうか。

そしてまたもや「神様のレシピ」というキーワードが現れます。

ですが、私の読んだ感想としては、今回は「神様のレシピ」と言えるほどだったかなぁ、というのが正直なところです。

恐ろしいほどに何気ない偶然が重なり合って辿り着く運命とでもいうべきもの、そのようなものが「神様のレシピ」だと思っていましたが、今回は偶然と言うよりも必然の帰結と言える部分が多かったような気がします。

例えば鈴木の復讐の相手が車に轢き殺されてしまうという展開も、恨みを多く買う人間であれば、その成否はともかく、鈴木以外の人間に狙われるのも別段不思議なことではないと思います。

その現場を目撃してしまったことで鈴木は、その後の厄介事に巻き込まれていきますが、寺原の会社に所属している限りは、それは確かに厄介事ではあっても、厄介事自体は別段珍しいことではないはずです。

そういった世界に自ら足を踏み込んでしまっているわけですから、いわばそのような厄介事は日常茶飯事のこととして考える方が自然です。

ただ鈴木本人がそういった世界に染まっていないだけで、偶然そのような厄介事に巻き込まれた、と考えるのは逆に不自然ではないかと。

「鯨」にとっての偶然と言えば、やはり「押し屋」らしき人物をたまたま仕事中に見掛けてしまったことだと思います。

「蝉」に至っては、彼にとっての偶然は一体どこだったのか、いまだに私には判然としません。
寺原の事件がなくとも不穏な空気や人物といったものは、裏通りばかり歩いていれば自然とぶつかるものでしょう。

「押し屋」に至っては、ある意味全て計算ずくな行動なわけですから、偶然といったものが何だったかと言えば、恐らくブライアン・ジョーンズの話が飛び出してきたことくらいではないでしょうか。

「グラスホッパー」の見所としては、今回は伏線の張り方と回収といった技術的な面に目を引かれました。

そこで「劇団」が出てきますか。
そこでスズメバチですか。
といった具合です。


内容的には数が増えてくると凶暴になり、より遠くへ飛べるように翅が大きくなるという「飛びバッタ」の話が印象的です。

これをテーマにするなら、殺し屋という特殊な職業の人間たちの話ではなく、いっそ普通の人々がごくごく普通に、穏やかに暮らしているだけなのに、違う見方からはその普通の人々こそが非常に凶暴で、本人達も気づかぬ内に周辺のもの全てを食い散らかしている、というような話の方が面白そうかとは思いました。

それが「グラスホッパー」では、普通の人々は殺し屋達にあっさり殺害されてしまっているので印象に残りにくいのです。

さらっと読めば、ただの被害者なんです。
ですが、例えば「蝉」が皆殺しにした一家、「鯨」が自殺させてきた人々、彼らに焦点を合わせてみると、果たして善良な人間だったと言えるのかどうか。

殺し屋もその被害者も、どちらも凶暴な飛びバッタ。
ただより強かったり、運がよかったりした方が生き残っただけ。

生き残ったところで「群集相」の中にいる限り、彼は幻想を見て凶暴になっていくだけではないでしょうか。

2013年8月12日月曜日

「死ねばいいのに」京極夏彦 (講談社文庫)


あらすじ
「話聞かして欲しいンすけど」
亜佐美という死んだ女について、そう尋ねる男ケンヤ。

凡そ人にものを尋ねる態度ではなく、言葉遣いもなっていない、不遜な若者である。

そもそも君は一体彼女の何なのかと問えば、知り合いだと言う。
それも4回しか会ったことがないらしい。

「俺、アサミのことあんま知らないンすよ。だから」

そう言っては亜佐美の派遣先の元上司、マンションの隣室に住む女、チンピラの彼氏、そして彼女の母親といった関係者一人一人の元を訪れては彼らを 不愉快にさせつつ、彼女のことについて教えてくれと尋ねるのだ。

彼らは不愉快ながらも渋々話していくのだが、どこかおかしい。何かがずれている。
そう思い始める頃、

――死ねばいいのに。

という言葉によって、ずれているのが自分だと気付かされる。

ケンヤは、そして彼女の関係者達は一体彼女の何を知っていたというのだろうか。

 まず「一人目」の冒頭を読んで、「どうにも感じの悪いチンピラっぽい若者が鼻につく話だな。こいつみたいな奴いるよね、死ねばいいのに」私はそんな風に思っていました。そして冒頭を流し読みする程度のつもりが、ぐいぐい引き込まれていきます。

 読み進める内に、「死ねばいいのに」という思いの向かう対象がずれていき、気付けばその呪いの言葉は、まさに読み手である自分に向けられている言葉なんじゃないかと感じてきます。

 じわじわと来ます。

 普段は意識せずに目を背けている、自分の厭な部分を胸元に、喉元に突きつけられているような感じがしてくるのです。なのに、読んでしまう。厭なのに。


 本作は、ブラッドピット主演の映画「セブン」でも扱われたキリスト教の「七つの大罪」がモチーフなのではないかと思っています。
 「二人目」「三人目」「四人目」までは、順に「嫉妬」「憤怒」「怠惰」かと解釈しました。「一人目」と「五人目」と「六人目」がわかりにくいのですが、「一人目」が「色欲」、「五人目」が「暴食」、「六人目」が「傲慢」と当て嵌められると思います。
 ところが本作は「六人目」までしかありません。最後の一つ、「強欲」はどこに……? もしかすると「七つの大罪」がモチーフという私の解釈が間違っていたのかもしれません。

 ところで映画「セブン」は「現代人の無関心」をテーマとしたものでした。
 本作「死ねばいいのに」では誰も亜佐美のことを知らず、話すのは自分のこと、不平や不満や愚痴ばかり。まさに無関心だったのでしょう。

 私自身、読んでいる最中は登場人物の不平や不満と似たようなものが自分にもあるなぁ、などと思ってしまいました。結局自分のことばかり考えていたような気がします。

 誰も亜佐美のことなんて知らない。知ろうともしないのです。読者ですら、です。

 もしも私の解釈が間違っていなければ、「強欲」の「七人目」は私も含めた読者自身だったのかもしれません。

2013年8月1日木曜日

「鉄鼠の檻」京極夏彦 (講談社文庫)


あらすじ
とある箱根の旅館の庭内に忽然と現れた僧の死体を皮切りに次々と僧侶達が殺されていく、後に箱根山連続僧侶殺人事件と呼ばれる事件が起きた。
折りしも、古書の鑑定と買取の依頼を受けた京極堂とその付き添いの関口は箱根に宿泊しに来ていたのだが、いつものごとくその事件に巻き込まれていくことになる。

 前回の「狂骨の夢」に続き、またも仏教分野のお話で、前回は密教を巡っての話でしたが、今回は禅宗を巡っての事件となります。

 「狂骨の夢」では読者を置き去りにしたまま、ラストで京極堂が密教についての薀蓄を一気に述べて解決に導いていましたが、今回は読者を置き去りにすることなく、途中途中で京極堂が非常にわかりやすく禅について語ってくれます。

 個人的には前作の「狂骨の夢」は、どうも失敗だったような気がしていますので、これでリベンジができたのではないでしょうか。

 事件とは全く関係ないのですが、久し振りの旅行のためかいつもより気分が若干ウキウキしてるような、はしゃいでるような、いつもよりフットワークの軽い京極堂の姿が見れて楽しかったです。

 迷子の振袖娘という怪異が出てきますが、事件の本筋には全く無関係で、これは読み手の推理の撹乱のためだけの要素という気がします。

 「鉄鼠の檻」は全体的にいい出来だと思うので、正直この迷子の振袖娘の話は蛇足のような感じがしてなりません。


 本書での一番の謎といえば、恐らく犯人の動機だと思います。これは実際に読んでもらって、そういうこともあるもんなのかなぁ、とでも思ってもらうしかありませんが、ただその根本においては「嫉妬」「羨望」「妄執」という如何にも人間らしいあさましさがあったと考えるとシンプルではないでしょうか。

 ただその「嫉妬」「羨望」「妄執」の対象が一般的に思い付くようなもの、例えばお金や地位といったものではなかっただけ、と考えると犯人の動機は非常にシンプルで、全ての謎が消えてしまうのが興味深いですね。

 本書を読んで禅というものが理解できたとは私は全く思いませんが、それでも自分なりに咀嚼してみたものを、以下につらつらと書いていこうと思います。

 一枚の透明なフィルムシートを思い浮かべ、そこに黒字で文章を書くとします。当然、そこに書かれていることは容易に読み取れます。

 今度は先程とは違う文章を、また別の透明なフィルムシートに書き込み、先程のシートの上に重ねるとします。判読はやや難しくなると思いますが、それでも何とか読めるのではないでしょうか。

 ですが、すでに書き込まれたものと異なる文章を書き込んだフィルムシートを3枚、4枚と次々に重ねていけば、いずれ判読は不可能になります。
 下のフィルムシートに書き込まれた文字が上のフィルムシートを透過し、文字が次々と重なり合っていけば、それは文字ではなくただの黒い記号のようなものが連続してるだけのようにしか見えなくなるわけです。

 フィルムシート1枚に書かれたものが世界や事物・事象についての1つの解釈として置き換えるなら、人によりその解釈は様々で故事にあるようにまさに千差万別・十人十色でしょうから、無数のフィルムシートがあるということになるでしょう。
 ですが実際の世界というものは、それらの解釈全てを飲み込んでも、まだなお言葉での説明がつかないもの、なのではないでしょうか。

 解釈という行為は世界の一側面を切り取って、言葉によって説明しようとする行為だと思うのですが、それはあくまで1枚のフィルムシートでしかなく、世界とはただの黒い記号のような塊で、外側から眺める分には判読ができないものだと思うのです。
 つまり世界や自分というものを自分の外に置いて、観察しようとすればするほど、判読ができない黒い塊でしかないものがそこに現れてくるわけです。
 よしんば、一枚のフィルムシートを塊から取り出して判読できたとして、それはあくまで一部であって、世界という黒い塊そのもの全てを読み取ったことにはならないでしょう。

 これが十牛図の「黒い牛」なのではないのでしょうか。
 そして「十牛図」の牛が白くなるというのは、自分がその世界の一部、黒い塊の一部になることを意味しているのではないでしょうか。

 自身が世界、黒い塊の一部、つまり黒い塊を構成するフィルムシートの一枚に書き込まれた文字として周囲を見渡せば、そこにはもう判読するべき黒い塊はなく、透明なフィルムシートだけが目に入るような景色が見えるのではないかと思うのです。

 つまり世界はよくわからん真っ黒なもので、自身もその一部であると自覚するのが悟りであり、いくら言葉で世界や自身を解釈したところで、それは黒い塊を構成する一枚のフィルムシートに過ぎず、そのように自身の外側に世界や自身を置いて観察している限り、そこには判読不可能な黒い塊のような記号が延々と目に映るだけ、ということなのかな、と思いました。