2013年5月17日金曜日

「SOSの猿」伊坂幸太郎 (中公文庫)



本作の感想を書こうと、久し振りに読み返してみました。
そして気付いたことがあります。
この小説は面白い、ということです。

一回目の読了時には、「伊坂作品らしさは出ているけど、面白味に欠けるなぁ」などと思っていました。
恐らく、私以外にもそう感じた人は、多いのではないでしょうか。
特に、ミステリー=推理小説だと考えている、頭の固い人は尚更そうではないでしょうか。
この小説は推理小説というよりも、むしろミステリー小説と呼ぶべきものです。

猿(孫悟空)について、物語の中で様々な角度から解釈がされようとします。
また、読み手である私達も、自分なりに解釈を施そうとします。
ですが、最終的にどうしても理屈では割り切れそうにない部分が残ります。
それがこの物語のブラックボックス、即ち「謎」にあたる部分です。


ここでこの猿に、私なりの解釈を加えてみたいと思います。

物語の序盤で「人間のやる愚かな行為が、悪魔の仕業であるほうが救いがある」と、遠藤が独白する場面があります。
これは例えば、ある人の恐ろしい言動や子供の引きこもりなどが、「親の教育」や「子供の性格」、「家族の愛情」の問題とされるよりも、「悪魔の仕業」と断定される方が、まだほっとできる、という心情です。

事実、私達は度々、そのようにして心の安定を図ってきた歴史があります。
妖怪、悪霊、狐憑き、と云ったものを思い出してもらえれば、分かり易いかもしれません。

では、その逆はどうなのでしょうか。
困っている人を見て、助けてあげたいと思う気持ちや行為が起こるのが、悪魔の仕業でないとすれば? 悪魔が憑けば、悪いことをする。
では神ですか? 神は暴力を認めていたでしょうか。
そこで例のあの猿が原因だと断定してみるのは、どうでしょうか。

猿憑きになると、困っている人を兎に角救いたくなって仕方がなくなる、そのためには時に暴力を振るったり、人を謀ったりもする。
何故なら神ではなく猿だから、という理屈で例の猿を解釈しますと、この作品は「古典説話で語られるような不思議」に満ちた物語として読めてしまうのです。
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