2013年5月31日金曜日

「カラスの親指」道尾秀介 (講談社文庫)


あらすじ
同僚の借金の保証人欄にサインをした時から、武沢の人生は歯車が狂い始めた。
気付けば騙され、全てを失っていた。仕事も家も財産も、そして家族も。
いつしか武沢は騙される側ではなく、騙す側の人間に、悪党になって生きる、自らにそう言い聞かせながら生きるようになっていた。そうしないとまた騙される側、負ける側になってしまうからだ。
ある日、武沢同様に騙され、負け人生を歩むテツさんと出会い、共に詐欺を生業として生活を送るようになる。
そんな男二人の生活の中に一人の少女が加わり、やがて同居人は増え、男女5人と猫1匹の奇妙な生活が始まった。
彼ら5人は各々自分の過去と向き合い、決着をつけるため、人生を賭けた大勝負に出るのだが。

 ヒントは至るところにあからさまな形でちりばめられています。「アナグラム」と出てくれば、推理小説好きなら当然人名に注目しながら読み進めるでしょう。なので、登場人物の名前を常に一人一人チェックしていくと、ある程度は気付くのです。
 問題は一体どこからどこまでが仕組まれたものなのか、ということ。これは最後の最後まで読み進めて、はじめて「あ、あれがそうだったのか」となると思います。


 正直言うと伏線の置き方があからさまで微妙な感じがしてたのですが、回収の仕方が秀逸でした。
 デビュー作と比べると、本当に上手い話が書けるようになったんだなぁ、と思ってしまいます。人物を掘り下げる描写も今までよりも上手くなったと思います。
 ただ難を挙げるとすれば、薄っぺらいことでしょうか。これだけ上手くて掘り下げれているのに、どうしてこう薄いと言いますか、軽い感じがするのか不思議です。

2013年5月23日木曜日

「イン・ザ・プール」奥田英朗 (文春文庫)



 アニメ化された際のタイトルが「空中ブランコ」だったので、こちらの「イン・ザ・プール」の方が続編かと思ってました。どうやら「イン・ザ・プール」の方が先だったようです。

「空中ブランコ」奥田英朗 (文春文庫) - 読書記録






あらすじ
伊良部総合病院地下の主、精神科医伊良部一郎。

色白のデブでマザコン。図太い神経の持ち主であり、そのためか身なりを気にしないところがあり、ボサボサの髪にはフケがある。なのにナルシストな上に注射フェチ。そんな破天荒な伊良部ののもとに訪れる患者達。

プール依存症、陰茎強直症、被害妄想癖、携帯電話依存症、強迫神経症、これら5人の患者を果たして伊良部一郎は救えるのか。

 伊良部一郎は特に治療らしいことを、患者に対して何もしません。でも最後には救われていくというラストが待ってるんです。
 明らかに患者よりも、治療する側の伊良部の方がおかしい人物というのがポイントです。

 5人の患者はいずれも世間一般的には心の病を持つ人たちという位置にいるのですが、実際には今の日本社会において、誰しもが陥りかねない心の落とし穴に足を絡め取られただけの、至って普通の人たちだと考えるべきかと思います。
 逆に伊良部のように人の目を気にせず、自分の思うままに振舞って生きることの方がよほど困難ではないでしょうか。


 人は日常生活を送る際、自分でも気づかない内に自分で勝手に決めた価値判断などを元に考えたり、行動したりしてると思います。
 例えば、自分はダメな人間だと自信をなくしてる人に、どういうところがダメなのかと問えば、その人がどのようなことに対して価値を認めているのかわかります。仕事が上手くいかない、人間関係が上手くいかない、だから自分はダメ人間だ、というようにです。

 その答えに対して、ではなぜ仕事が上手くいかないことや、人間関係が上手くいかないことがダメなことなの? 別にいいじゃないの、仕事が上手くいかなくても、人間関係が上手くいかなくても、と返したとします。

 こういうと、いや仕事や人間関係は大事だろ、と反論される人もいるかと思います。それに対して私は、まさにそれこそがあなたの思い込みです、と答えます。
 思い込みという言い方が悪いかもしれないので言い換えますと、仕事や人間関係は大事という価値判断に頼って生きている証拠、と指摘できるわけです。

 当然そういう価値判断に至るまでに、いろんな経験をされた上でそう口にしているんでしょうが、あくまでそれはその人個人の経験だけに基づくもので、いわば長い年月をかけて心の鎧に厚みを加えてしまった結果だとも言えます。

 自信家でその根拠が自分は仕事ができる、お金を持っているという人の場合は、非常に落とし穴に嵌りやすいです。その根拠を失うことに対しての不安を抱えてしまったり、また失ってしまった時、他に何も見えなくなりがちです。

 伊良部一郎が対峙する患者たちは、そういうごくごく普通の一般人たちです。伊良部一郎は、その心の鎧を脱がして、そんなものがなくても生きていける、ということを教えている、ただそれだけなんですね。

2013年5月17日金曜日

「SOSの猿」伊坂幸太郎 (中公文庫)



本作の感想を書こうと、久し振りに読み返してみました。
そして気付いたことがあります。
この小説は面白い、ということです。

一回目の読了時には、「伊坂作品らしさは出ているけど、面白味に欠けるなぁ」などと思っていました。
恐らく、私以外にもそう感じた人は、多いのではないでしょうか。
特に、ミステリー=推理小説だと考えている、頭の固い人は尚更そうではないでしょうか。
この小説は推理小説というよりも、むしろミステリー小説と呼ぶべきものです。

猿(孫悟空)について、物語の中で様々な角度から解釈がされようとします。
また、読み手である私達も、自分なりに解釈を施そうとします。
ですが、最終的にどうしても理屈では割り切れそうにない部分が残ります。
それがこの物語のブラックボックス、即ち「謎」にあたる部分です。


ここでこの猿に、私なりの解釈を加えてみたいと思います。

物語の序盤で「人間のやる愚かな行為が、悪魔の仕業であるほうが救いがある」と、遠藤が独白する場面があります。
これは例えば、ある人の恐ろしい言動や子供の引きこもりなどが、「親の教育」や「子供の性格」、「家族の愛情」の問題とされるよりも、「悪魔の仕業」と断定される方が、まだほっとできる、という心情です。

事実、私達は度々、そのようにして心の安定を図ってきた歴史があります。
妖怪、悪霊、狐憑き、と云ったものを思い出してもらえれば、分かり易いかもしれません。

では、その逆はどうなのでしょうか。
困っている人を見て、助けてあげたいと思う気持ちや行為が起こるのが、悪魔の仕業でないとすれば? 悪魔が憑けば、悪いことをする。
では神ですか? 神は暴力を認めていたでしょうか。
そこで例のあの猿が原因だと断定してみるのは、どうでしょうか。

猿憑きになると、困っている人を兎に角救いたくなって仕方がなくなる、そのためには時に暴力を振るったり、人を謀ったりもする。
何故なら神ではなく猿だから、という理屈で例の猿を解釈しますと、この作品は「古典説話で語られるような不思議」に満ちた物語として読めてしまうのです。

2013年5月12日日曜日

「空中ブランコ」奥田英朗 (文春文庫)



 前作「イン・ザ・プール」に続く、連作短編小説集です。扱うテーマは現代人の生活において、決して軽い部類のものではないと思います。しかしその割りに、さらっと読めてしまいます。

「イン・ザ・プール」奥田英朗 (文春文庫) - 読書記録







  全編に渡って描かれる患者の病状は全て、過度の不安から生じたものです。不安の具体的な内容は、各話ごとに異なります。新たな環境や人間関係に対しての不安、自分の仕事や居場所に対しての不安、責任や将来についての不安など、多岐に渡ります。

 患者達は、無意識の内にこの不安という感情に蓋をして、敢えて見ないようにして生活を送ります。しかしそうすることで、却って不安を溜め込んでしまうことになり、不安がより増していきます。

 不安の裏返しとして、警戒心や心のバリヤーといったものが湧き上がってきます。これらは不安が強まれば強まるほど、より強くなります。そして不安とその裏返しである警戒心が度を超すと、強迫症などの病的反応に繋がる、という仕組みが、物語の中での基本的な解釈のようです。

 現実においても同様の不安は誰しもが、程度の差こそあれ、抱えているのではないかと思われます。
作中では明確な解決策は提示されません。何せ伊良部という精神科医は、精神年齢5歳児と思えるような振る舞いをして見せるような人物ですから。ただ部分的に、私なりに解決策ではないかと読み取れたところを、羅列する形で並べ述べてみようと思います。

 まず不安とは、吐き出すべき感情だということ。そして自分が不安を抱えている、ということを自覚すること。不安を抱えてしまうような弱さが、自分にもあることを認めること。弱いからこそ、みんな精一杯突っ張って生きているんだ、ということに気付くこと。以上を踏まえつつ、次に行きます。


 さて不安を吐き出すとは、どのようにすればいいのか、です。作中では、対話こそが、その鍵を握っているようです。対話、すなわち言語化することで不安の正体が認識できるようになり、正面から向き合えるのかもしれません。

 また最終話「女流作家」では、次のような文章が見られます。
「負けそうになることは、この先、何度もあるだろう。その都度、いろんな人やものから勇気をもらえばいい。みんな、そうやって頑張っている」

「人間の宝物は言葉だ。一瞬にして人を立ち直らせてくれるのが、言葉だ」

 もちろん、このような方法が、唯一絶対の解決策という訳ではないでしょう。しかし、映像文化にどっぷり浸かってしまっている私たち現代人にとって、このような対話による不安の解消方法は、解決策の一つではないかと思われます。

2013年5月7日火曜日

「占星術殺人事件」島田荘司 (講談社文庫)



 どうも私は、推理小説とは肌が合わないようです。これまでにも何冊か、推理小説と呼ばれる類のものを読みました。しかし、どうしてもワクワクドキドキしないのです。このことについて、本作にも触れつつ、自分なりに考えていこうと思います。

 まず推理の条件提示に中る部分が、まだるっこしく感じます。エラリー・クイーンの手法とでも言うのでしょうか。犯人に辿り着くヒント・手掛りを、文章中にさりげなく潜ませてある部分が、楽しく読めないのです。数学であれば、設問部分に中る箇所です。思うに、数学を好む人の多くは設問ではなく、解に至るまでの思索を楽しんでいるのではないでしょうか。

 推理小説と呼ばれるものの多くは、この設問箇所に多くの労力を費やしているように見受けられます。再度、数学で喩えるなら、矢鱈と長い文章問題といったところです。この部分を楽しく読めるというのは、私には不可解です。

 次に登場人物について考えてみます。推理小説の場合、先に謎ありき、といったところから作品が作られていきます。即ち、こういう謎、こういうトリックを成立させるためには……というところから、犯人の性格や立場、また周囲の人間関係や犯行の動機などが決定されていきます。本来ならば、後々湧き上がるはずの謎が、先立って犯人像とその言動を決定してしまう、という転倒が起こる訳です。

 そして本作のような、事後解決型の筋立てになると、探偵役は安全な位置で観察・分析・推理を行うことになります。こうなるとストーリーに大きな動きはなく、しばしば退屈な思いをさせられます。探偵役が最後には必ず謎を解決するという結末は、必然であり、予定調和となります。あとはどんなタイミングで、どのように解決して見せるのか、という演出上の問題に帰結します。


 こうなると多くの場合、読者の関心は探偵よりも犯人側に向かうことになります。その人物、動機、トリックの方法に向かう訳です。しかし残念なことに、推理小説では先に人物ありきではなく、先に謎ありき、なのです。犯人は謎のために作られた人格であり、その動機も言動も、全て謎の成立のためだけに作られるのです。

 数学で喩えるなら、解ける「解」が先に用意されてから、その「解」に至るための、適切な設問が作られるという手順です。真に思索を好む者とは、果たしてそのような問題に興味を抱くものなのでしょうか。

 ある解に対して仮説を立て、立証して行く楽しさとは、どこまで追求しても、その解が真だと言い切れない部分にあるのではないかと、私は思います。