2013年4月25日木曜日

「殺人鬼フジコの衝動」真梨幸子 (徳間文庫)



 犯罪小説の類いの作品です。面白かったかどうかだけで判断すると、面白くない部類に入るのではないかと思います。

 まず一番のテーマが見えてきません。教育心理学的な話なのか、「仮の人格」についての話なのか、それとも教団による組織的な洗脳や暗示の怖さについての話なのか、判然としません。結果として、何とも中途半端な犯罪小説のようなものになってしまった感じです。

 この点を明確にしないと、結局、何故フジコが殺人鬼となったのかが伝えられません。先に挙げた点の複合的な作用の結果として、フジコという殺人鬼が生まれた、というのなら、それはそれで構わないのです。ただ、それにしてもどの点の作用についても、詳細な記述が見られないので、どうも尻の据わりが悪く、すっきりしない感じだけが残ります。

 恐らく作者の意図と離れた読者視点では、「蛙の子は蛙」的な話として、印象に残ったかもしれません。そこでその辺りについて、私なりに思うところを書いていこうと思います。

 教育心理学では、人格とは遺伝による先天的なものではなく、後天的なものであり、生まれ育つ環境に左右される、という考え方があります。
 物事の分別がつく頃には、親を一個の人間として見て、その良い面、悪い面を区別して捉えることができるようになります。そして悪い面を「反面教師」として、謂わば「人の振り見て、我が振り直せ」とばかりに、自分の言動に注意を向けられるようになります。
 
 ですが、多くの場合、物事の分別がつく頃には手遅れです。その段階では最早すでに親からの影響を多大に受けてしまっています。当然、その影響から逃れるのは困難です。また、一度受けた影響を、意識的に修正するというのも困難でしょう。だからと言って、私は、そうして受けた影響を「業」だとか「運命」だとは呼びたくありません。

 「業」だとか「運命」だと言って認めることは、人は永遠に親の呪縛から抜け出すことは不可能だということを認めることに他なりません。ですが、そうではないでしょう。


 人にとっての「種の保存」という営みは、己のコピーを残すという営みであると同時に、不完全なコピーを作り出す営みでもあるのです。これは生物学的に見て、疑いようのない事実です。オリジナルと比べれば、必ず差異が認められるはずです。その差異こそが、個体としての特性、すなわち個性として認めるべきところではないでしょうか。

 ところが不思議なことに、人はその傾向として、親と似ている点にばかり、注意が向かってしまうようです。これは逆説的に言えば、違う個体だからこそ、似ている点に着目してしまうのではないか、と私は思います。そう考えるだけで、人は親の呪縛から逃れ得るのではないか、という気がします。

2013年4月23日火曜日

「楼蘭」井上靖 (新潮文庫)



 新潮社から刊行されたものを読んだ感想になります。本作は、表題作を含めた十二編から成る短編集です。古典から題材を得たものが、そのほとんどです。怪談・奇談、あるいはオカルトと呼ばれるような内容の話で構成されています。その中で、私が特に気に入っているのは「洪水」と「羅刹女国」です。

 この二編は虐げられる女性の、人としての尊厳についての問いを読者に投げ掛けてきます。それも現在よりも男尊女卑の気風の強い時代において、です。
 恐らく原拠とした文献には、ここまでは描かれていなかったのでは? と思われます。思うに、氏の手によって加工され、昭和の寓話として描かれたのでしょう。


 あと一編「補陀落渡海記」について、思うところを述べておきます。この一話は、人にもよりますが、昔の人は何と愚かなのだ、と笑い話程度に思わせるものかもしれません。正直、私はこの一話を読んだ直後には、特に如何とも思わなかったのです。昔の人の迷信深さや愚かさについて書かれた話かと思う程度でした。
 ですが感想を書くに至り、ふと気になることが頭に浮かんできました。物語が書かれた年を調べると、昭和三十六年とありました。これが昭和二十年前後の作品であれば、かなり思い切った物語を書き上げたものだと、私は驚いていたことでしょう。
 本人は望んでいないのにも関わらず、周囲の人々の勝手な期待で死地に赴かされる、という筋と、昭和二十年前後の時代背景を結びつけると、そこには太平洋戦争時の日本の国体が、どんなものであったのかが、おぼろげに浮かんで来そうです。
 思うに「補陀落渡海記」はそれを指して、当時の人々の愚かさを遠回しに批判した作品だとも受け取れるのではないでしょうか。

2013年4月13日土曜日

「ソードアートオンライン (7)」川原礫 (電撃文庫)



 ライトノベルというジャンルは、十代の人を主な読者に据えたものとも言われています。ですが本作「ソードアートオンライン(7)マザーズ・ロザリオ」は、そのようなジャンルの中にあって、比較的重い話になっています。

 但し、この作品の感想として、人の生死や生きた証といったものについて云々することは、敢えて避けておこうと思います。そういう話をするには、この話はあまりに綺麗ごと過ぎるからです。ぶっちゃけ人の生死なんて、そんな綺麗なものじゃないでしょうから。

 それよりは、十代の人に人気があるという本作から、今時の若者達が実生活において感じてそうなこと、すなわち物語のどういった要素に共感しているのかを読み取ってみようと思います。

 恐らくキーワードは「居場所」なのではないでしょうか。本作で言われる「居場所」とは、心の還る場所とも呼ばれています。具体的には、本当の自分でいられる場所、といった意味合いのようです。
 この「居場所」を求める心理を裏返してみます。すると、今の自分は本来の自分ではない、ここは自分のいるべき場所ではない、という思いが潜んでいると考えられます。

 これはたとえば、実生活において親やその他、自分以外の人間に、自分の生き方・あり方を押し付けられて、抑圧感や閉塞感を抱いている。その上、その抑圧感や閉塞感を自力で打ち壊せないで、現実世界における自分の無力感を感じて苦しんでいる、ということが読み取れます。

 ところが一方で、人は無意識の内に自分を美化・正当化しようとする傾向が一般的にあります。自分はもっと優れているはず、抑圧や閉塞状態を打破できるはず、もっといろんなことができるはず、といった具合です。そこで出てくる考え方が「こんな無力な自分は、本来の自分ではない」というものです。

 その考えの延長として、本来の自分と信じる姿に戻れるところ、それが「居場所」であり、心の還る場所なのでしょう。どこにあるのかは分からないけれど、それを求めて止まない気持ちだけが明確で、人によっては自分探しの旅に出たりするのかもしれません。本作では、そういう人々はゲーム内で、理想の自己実現を行っていると言えます。


 自分の姿の、理想と現実の差から生じる無力感に喘ぐ人々に「は? 何言ってんの? 今、目の前にいるのがお前じゃんか。世界中どこ探したって、お前はそこにしかいねえよ」と一刀両断せず、作者の川原氏は「ぶつからなきゃ伝わらないこともある」と、逃げずに生身で現実に向き合え、と方法を示してくれます。
 優しいですね、言い方が。私なら「本来の自分とかねえから。どこ探したって、自分なんてのは今そこにいる、生身の自分しかねえんだって。弱いのが嫌なら、強くなりたいなら、今この場で、限りある残り時間を使って、精一杯頑張るしかねえだろうが」と突き放してます。

 ところでアスナの母、京子が最後に都合よく心変わりせずに転校を強要していたら、アスナはそのまま、渋々受け入れていたような雰囲気でしたね。まだまだですな。

2013年4月7日日曜日

「ゴールデンスランバー」伊坂幸太郎 (新潮文庫)



世間一般では、伊坂幸太郎の集大成という評価が高い作品です。
その是非は兎も角、私が思うところは、伊坂作品の中で最も異質と言える作品だということです。
その異質と感じるところについて、自分なりに目に付いた点を述べていきます。

まず名言が見当たりません。
伊坂作品の大きな魅力の一つは、至るところに散りばめられた名言を目にすることです。
これがなければ、矢張り物足りなさを禁じ得ません。

次に、地の文の据わりが悪く感じることです。
というのも、これまでの伊坂作品の多くは主人公視点、すなわち一人称視点で語られていたのです。
ですが今回は、見えざる第三者視点で記述されています。
一人称視点でしか本来なら記述できない、あるいはすべきでない部分が、彼方此方に紛れ込んでいるのです。
これが据わりの悪さの原因かと思います。

表現方法の問題になるので、ここでは深くは掘り下げません。
ただ少しだけ書かせてもらうなら、五感の内、嗅覚・味覚・触覚における第三者視点での記述は、慎重に行う必要があります。
先の三つの感覚情報は、本来、行為者本人にしか知り得ない情報な訳ですから。


最後に、この物語が到達する最適解に納得ができない、と云う私情の問題があります。
国家は国民のためではなく、国家自体の存続のために活動する、と云う点は、確かにあるように思います。
ですが、国家や権力と呼ばれる、個人にとって大きすぎる相手を敵に回した時、一番利口なのは逃げること、と云う点が不満なのです。

理性的に考えれば、確かにそれが一番利口なのでしょう。
ですが生憎と私は、そういう物分りのいい考え方ができないのです。

なお、本作で最も伊坂氏らしさが出ていたと思える箇所は、「痴漢は死ね」と書かれた郵便物を、青柳平一が目にする場面でしょうか。
物語のテーマからは逸れている箇所です。否、むしろだからこそ、でしょうか。
一番「らしさ」が出ているように思われました。