2013年3月20日水曜日

「砂漠」伊坂幸太郎 (新潮文庫)



凡庸な大学生・北村と、彼を取り巻く友人達の周囲に起こる出来事を綴った青春小説です。

ところで、私には嫌いなものが二つあります。
一つはクッキーやゆで卵の黄身など、口の中が渇く類いの食べ物です。
もう一つは、愚鈍なくせに理屈っぽい人間です。

あとうるさい人や煩わしい人も嫌いです。
さらに加えて、小太りな人間、知った風な顔で安っぽい使命感や正義感を振りかざして、後先を考えずに行動するような人も嫌いです。
二つどころではありませんでした。
嘘吐きですね。
すみません。

およそ私の嫌いなものを寄せ集めたような人が、北村の友人・西嶋です。
当て嵌まらないのは、彼が口の中が渇く類いの食べ物ではないことくらいです。

そんな西嶋ですが、彼に対する友人達の評価は、それほど悪いものではありません。
西嶋は憶さない、自分を信じている、恰好悪いけど堂々としている、見苦しいけど見苦しくない、西嶋を見てると何でもできるような気がする、等々です。
彼なら砂漠に雪を降らせることもできるかもしれないって気がする、なんてことを言う人まで出てくる始末です。
無理無理。
無理ですよ。

小さな悪事を目撃して、警察に通報もせず、好奇心からか安っぽい正義感や使命感からなのか、危ない状況に自ら首を突っ込む友人を無理にでも引き止めもせずに、大怪我をさせてしまうような人が、一体誰を救えると言うんですか。
そもそも自分の安っぽい正義が、時には逆に人を傷つけてしまうことがあることすら、念頭にないのですから。


では悪事は見て見ぬ振りをするか、他の人に何とかしてもらうのがいいのか? と問われるかもしれません。
そうです。
その通りです。
それが一番安全で、無難です。

とは言え、世の中は悪意で溢れています。
ちなみに悪意に大小はありません。
仮に大小があったとしても、悪意は悪意以外の何ものでもありません。
さておき、悪意は見て見ぬ振りをしようとしても、誰かに何とかしてもらおうとしても、否応なく自分の身や自分の親しい人達に降りかかって来たりします。
いざという時とは、まさにこういう時です。

ところが、いざという時にはやる、なんて豪語している人ほど、いざという時が来てもやらないのが常です。
西嶋はそれに比べて、どんなことも真剣勝負です。
言い訳もせずに、逃げないで克服しようと試みます。
何かができないことを、人に笑われるのが悔しいのではなくて、できない自分自身が、無力な自分自身が悔しくて必死にやります。
傍からは詰まらないこと、必死にやるようなことじゃないと思われても関係ないのです。

そして時々、私はそういう人間になりたい、とも思うのです。

2013年3月15日金曜日

「終末のフール」伊坂幸太郎 (集英社文庫)



何だか嫌な、生々しい話です。
本作は小惑星の衝突によって齎される地球滅亡を、三年後に控えた世界を舞台とする、伊坂氏の連作短編小説です。

小惑星の衝突=死として扱われ、緩やかに進行する極限状態に置かれた人々の生き方が描かれます。
死は普段は意識されないだけで、全ての人に、それはいつか訪れます。
作中の人々は、そのことを小惑星の衝突という形で、徐々に迫ってくる死として、具体的に突き付けられます。

ある者は自暴自棄になって、人と争ったり、何かを奪い合ったりします。
しかし他人を襲ったところで、状況は何も改善されません。
そんなことをしても、死からは逃れられないのです。

そのことに気付いた人々は、どう生きるのか? どう生きるべきなのか? そんな感じのことが、この小説では物語られるのです。


本作では「許す」ということが、一つのキーワードになっています。
人を許す話、人を許せない話、自分を許す話、自分を許せない話。
あるいは許す対象がなく、許しを乞う相手も思い浮かばない話。
そのような話が続きます。

登場人物の台詞を幾つか引用します。
「隕石は落ちてくる、生活は楽しい――逆よりはましかもしれない」
「こんなご時世、大事なのは常識とか法律じゃなくて、いかに愉快に生きるかだ」

このあたりから、楽しく、愉快に生きることが重要だという作者の考えが窺えます。

「許す・許さない」も「楽しく、愉快に」も、一人では難しいことです。
物語の中で少女は言います、「一人は嫌だなぁ」と。
一人きりで生きることと死ぬこと、果たしてどちらの方が辛いことなのでしょうか。

とは言え、更に死が身近に迫って来れば、そんな「許す・許さない」だとか「楽しく、愉快に」だとか、言っていられないかもしれません。
他人を殺してでも生き延びようとする。
自分だけでも助かりたいと、醜く生きる。
他人を蹴落としてでも無我夢中で生きる。
そうすることで、少しでも生き延びられるなら、みんなそうするのではないでしょうか。
それが生きるということなのでしょう。

ここで重要なのは、こうしている今も私達は現実に、緩やかに進行する極限状態にある、ということです。
だからこそ本作は、何だか嫌な、生々しい話なのです。

2013年3月10日日曜日

「オーデュポンの祈り」伊坂幸太郎 (新潮文庫)



寓話のような、広義のミステリー小説です。
ミステリーと言えば、推理小説のことと考えるような頭の固い御仁の目には、不可解な物語として映ることでしょう。

ミステリー=推理小説と考える向きが強い中、デビュー作ということもあり、伊坂氏もその流れに逆らえなかった痕跡が窺えます。
一つは、誰がカカシを殺したのか? もう一つは、曽根川を殺したのは誰か? という二点において、推理小説的側面が強く出ています。

しかし推理小説かと思えば、一方で「悪党・城山」対「追われる伊藤」のサスペンス小説の一面があります。
またエピソード的に園山夫妻のヒューマンドラマもあります。
以降の伊坂作品の原型となる要素が盛り沢山です。


本作の最大のミステリーは、荻島と喋るカカシだと言えます。
いろいろな要素が詰まっている「オーデュボンの祈り」の中で、今回、私が目を付けたのは、このカカシと静香という女性です。生きていく上で、誰かに強く必要とされることが何より必要と考える静香と、一方、多くの人間に強く必要とされることに苦痛を感じ、生き続けることをやめるカカシ、という対照的な二つの存在です。

どちらの生き方、考え方も間違いとは言えず、むしろ真理だと感じます。
但し、この両者には一点、共通点があります。
それは両者ともに生きる理由あるいは意味を見出せずにいる、という点です。
もちろん、生に意味や理由は本来ないものだと私は考えます。
自ら意味付け、理由付けをした時にはじめて、生はその人にとっての意味や理由を備えるものです。
先に挙げた両者には、それがないのです。

あればいい、ある方が優れている、という訳ではありません。
ただ、なければ底なしの渇望、あるいは虚無感の中で生き続けることになり、そういう生き方はひたすら辛く苦しいものではないかと思うだけです。


2013年3月5日火曜日

「残穢」小野不由美 (新潮社)



 人気作家、小野不由美による長編ホラーです。作者や知人の周辺で実際に起きた出来事を巡って、その原因を調査する、と云う筋立ての小説です。その調査は土地や建物の過去に遡って、主に当時を知る人々へのインタビューと云う形で行われます。そこで何かあったのか、あったならそれはどんな事だったのかを訊いて回るという訳です。

 至る結論としては、強い無念や怨みを伴った死は「穢れ」となって、人に障るというものです。この「穢れ」が怪異を発生させ、また人や物について伝染し、拡大していくと云う訳です。
 興味深い点は、祟りや呪いの行為者がすでに形を伴っていなくても、無形の怪異とも言うべき「怪異性」が新たな怪異を産出してくる、という論でしょうか。

 例えば「トイレの花子さん」という、よく知られる学校の怪談があります。どこの学校でも、同様の怪談があります。実際にどこかの学校で、謂れとなる事故なり事件なりがあったのかもしれません。しかし、全ての学校で同じような事件が一様にあったとは考え難いです。すなわち当の学校自体には「花子さん」にあたる人物や怪談の謂れとなる事故・事件が過去に存在していないにも関わらず、怪談だけがある、というケースを考えます。


 この手の怪談は不思議なことに、この怪談を話した者、聞いた者に限って、その身辺で怪異が発生するというパターンに至ります。怪を語れば怪至る、というパターンと呼べばいいでしょうか。話自体が怪異性を帯びて、「この話を聞いた者は、何故かみんな不運に見舞われる」と云った怪異として再生産される訳です。ですが、そこには最早「花子さん」が実際にいたかどうかは問題ではありません。「この話」自体が怪異を引き起こす訳ですから、供養をしようにもその対象がないので、怪異としては始末に悪いタイプの怪異と言えるでしょう。

 この小説そのものが怪異性を帯びて、怪異を呼び寄せてしまう触媒となり、読み手の元に怪異が伝染するかもしれない。そんな風に思わせる、と云う狙いが小野氏にあったのかどうか、私には到底分かりません。ですが恐らくは、そういう意図はなかったと思います。そこが残念です。

2013年3月1日金曜日

「日本の昔話」柳田国男 (新潮文庫)



 古今東西、日本だけに限らず、世界各地に様々な物語があります。このことから大袈裟かもしれませんが、物語というものは、時代と場所を問わず、全ての人々に求められてきたものなのかもしません。現代では文字だけに留まらず、漫画や映像などでも物語が作られ、多くの人に楽しまれています。みんな、つくづく物語が好きなんですよね。

 日本では最古といわれる物語集「日本霊異記」から始まり、その後「古事記」「今昔物語集」「宇治拾遺物語集」と多くの説話集が編まれました。それは多くの場合、昔々のお話として語られます。これもよくよく考えると面白いですね。それらの物語集が編まれた時代そのものが、すでに現在の私達には昔々のことであるのに、それよりもさらに昔のお話だというのですから、私達の想像が及ばないほどの昔ということになります。

 柳田国男氏の「日本の昔話」は、日本各地に伝わる伝承や伝説、あるいは民間説話を集め、編まれた物として知られています。すなわち柳田国男氏は作者ではなく、飽くまで編者ということになります。そう考えると、この「日本の昔話」は連綿と受け継がれてきた物語集の編纂事業の一端だと言えます。もちろん国を挙げての事業だった訳ではありませんから、その点では、過去の物語集とは規模が全く異なります。それでも昭和に成された、比較的新しい物語集だという位置付けで捉えると、これはこれである価値が出そうな書籍ではないかと思えます。


 さて、日本各地に散らばる説話や物語、そしてそれらを集めた物語集、どちらが卵でどちらが親鶏なのでしょう。物語集という名前なのだから、民間説話や伝承・伝説の類いが先だ、と考えるのが自然な気もします。ですが、中には物語集が先にあって、それが日本各地に散らばり、新たな物語が派生したケースも考えられます。

 たとえば、ある既存の物語を聞いた者が、それに触発されて、自ら物語を創作することは十分に考えられます。それが広まり、新たな民間説話としてその土地の者に定着すれば、それは物語集の方が先だ、という考え方も可能ではないでしょうか。

 もちろん物語の由来や成立を解明したところで、意味はないような気がします。ただふと思い付いたので書き留めてみただけです。
 個人的には「二反の白」は、綺麗なオチのある話なので、落語のネタにでもできそうな出来栄えだと感心しました。