2013年11月24日日曜日

「ビブリア古書堂の事件手帖3 ~栞子さんと消えない絆~」三上延 (メディアワークス文庫)


あらすじ
北鎌倉駅近くにひっそりと建つ古書店「ビブリア古書堂」の店主である篠川栞子は、若くて美人で胸がデカイ。
極度の人見知りだが、本に関する知識は常人のそれではない。
また天性のものなのか人並み外れた洞察力や観察力を持ち、店に訪れる様々な客の、本に纏わる相談に乗っては解決に導く。

ちなみに俺の名前は五浦大輔。ビブリア古書堂でアルバイトとして雇われている。
大学を卒業後、就職浪人となった俺は美人店主目当てで、ここで働き始めたのだった。

 あらすじは初めて読む人にも人物相関関係が大体把握できるように書いてみました。
 早くも3巻ですが、2巻に引き続き栞子さんとその母親との確執から来る重たい空気は、ここでも全編に漂っています。

 この小説を読むと、作中で扱われてる本を読みたくなりますね。
 「たんぽぽ娘」は結局小説の中ではどのような結末になるのか書かれていませんから、実際に読んで確かめたくなりますが、絶版本ということで容易に入手できないのが残念です。

 童話の類が意外と好きなので、個人的には第二話の「チェブラーシュカとなかまたち」を読んでみたいところです。


 第三話「春と修羅」ですが、これはネタを詰め込みすぎた感がありました。
 まずは本を盗んだ犯人を突き止めるところで一度終わらせて、「テナルデイ軍曹」から「消えた『春と修羅』の本当の秘密」までは、また別の話として膨らませた方がいいかと思うんですよね。

 この辺りは私個人の感想ですから気にする必要もない部分かもしれませんが、「レ・ミゼラブル」の登場人物という種明かしの前に、「春と修羅」の「眞空溶媒」では「テナルデイ軍曹」という言葉が、どのような文脈で使用されたものか等を示すことで、読者にミスリードを与えられる部分だったと思われます。

 そういう点で少し残念だったかと思いますが、それ以外はこれまで通り、血生臭い事件が起きない、安心して読める内容だったと思います。

2013年11月19日火曜日

「アラビアンナイトを楽しむために」阿刀田高 (新潮文庫)



 誰しも名前くらいは聞いたことがあるアラビアン・ナイトですが、その内容と言えば「アリババと40人の盗賊」「シンドバットの冒険」「アラジンと魔法のランプ」くらいがよく知られるところで、それらの有名な話にしても正確な話の筋となると、意外と記憶が曖昧な人が多いのではないでしょうか。

 いわんや、その他の話となれば全く知らない人が多いでしょう。
 アラビアン・ナイトという名前は知ってる。でも内容は知らない。これは知ってるとは言わないと思います。

 もちろん莫大な数の御伽噺ですから、全部知っておく必要はないと思いますが、先に挙げたものだけしか知らないというのも心細い限りです。


 阿刀田高の「アラビアン・ナイトを楽しむために」ではあまり知られていない話をいくつか選び、阿刀田流の解釈などを交えつつ、判りやすく語ってくれています。

 東洋文庫の「アラビアン・ナイト」も読んでみましたが、これらをまともに読むとうんざりしてきます。同じような言い回しや詩が繰り返されてすぐに飽きます。とてもじゃないけど物語を楽しむところにまで入り込むのは難しいです。

 そういう意味ではこの「アラビアン・ナイトを楽しむために」は非常に良書だと思います。全然知らない人でもアラビアン・ナイトの世界を楽しめます。

 アラビアン・ナイトが収める御伽噺の数は莫大です。人知れず埋もれてしまったままの話を取り上げて、現代語で大胆に意訳して紹介してみる人がもっと出てきてもいいのではないかと思いました。

2013年11月16日土曜日

「豆腐小僧双六道中ふりだし」京極夏彦 (角川文庫)


あらすじ
江戸郊外のとあるあばら屋に絵草子妖怪、豆腐小僧がおりました。
いつからそこにいたのかはとんとわからないのですけれども、手にお盆を持って、お盆の上には紅葉豆腐を載せて、ただ立っております。

この豆腐を落としてしまえば、自分は豆腐小僧ではなくなるのだろうか。
ただの小僧になるのだろうか。それとも豆腐諸共消えてしまうのか。
そんなことを考えております。

誰もいない廃屋で永遠にこのまま立っておるだけというのも恐ろしい。
そんな不安から廃屋から出てみましたものの、どこへ行くと云う当てもありません。

そんな成り行き任せの妖怪小僧が、自分が何者なのかを知ることになる道中記です。


 これはいいですね。大変面白かったです。妖怪に対しての京極氏の見解がわかりやすく述べられている点もいいですね。落語家のような地の文の語りがまた新鮮です。

 素ッ惚けたキャラの豆腐小僧が、最後に見得を切るようなシーンはバカなんだけどカッコいいと、つい思ってしまいました。

 妖怪や悪魔の類はよく悪者として描かれるんですが、悪いことを妖怪や悪魔のせいにすることで人は心の均衡を保っている部分はあると思うんですね。

 妖怪や悪魔の存在を全否定すれば、悪いことや不運は全て自分のせい、あるいはどうにもならない運命だと思うよりはないわけで、その方が精神衛生上はよくない気がしますよね。

 科学は確かにそれまで説明の付かなかったことを解明して、無用の不安を取り除いてくれたかもしれませんが、基本的に人間はどこまで行っても何かに不安を抱いたり怯えたりするもののようです。

 科学で説明できたからと言って、不安がなくなるわけではなく、逆に科学でも説明の付かないことに不安を抱いたりすることもあれば、科学で説明できるからこそ余計に恐ろしいこともあるわけですよね。

 例えば昔なら何かに憑依された人が誰かを傷つけたり、口汚い言葉を発したりしても、それは全て妖怪や悪魔の仕業ということで救われていた部分があったのが、そんなものはいないとなれば、ではなぜそんな言動をしたのかと突き詰めていくと、心の病気であったり、周囲の環境のせいであったり、本人なのか他人のせいなのかはともかく、誰も救われないという結論が出てくるだけではないでしょうか。

 人の心を救う仕組み、不安に形を与えて取り除けるようにしたものが妖怪、と考えれば、それを馬鹿みたいに受け入れておく方が人は幸せでいられたのかもしれません。

2013年11月11日月曜日

「骸の爪」道尾秀介 (幻冬舎文庫)


あらすじ
福島の事件から十ヶ月が過ぎていた。
売れないホラー小説家の道尾は、取材のために訪れた仏像の工房・瑞祥房に泊まった夜、またも奇怪な体験をした。

闇の中で笑う千手観音像、額から真っ赤な血を流す鴉枢沙摩(うずさま)明王像、マリ……マリ……と真っ暗な庭に響く低い声、部屋に戻って布団に潜り込めば、周囲を仏像が這いずり回るような音。

そして何事もなかったかのような翌朝、仏師が一人行方不明となっていた。

東京に戻った道尾が「霊現象探求所」の旧友・真備庄介を訪れ、事の次第を話したところ、今度は真備庄介、その助手の北見凛、そして道尾の三人で瑞祥房を再度訪れ、奇怪な体験が果たして霊現象だったのか調査する運びとなった。

 まず表題の「骸(むくろ)」が「もぐら」の方言という点で、まずタイトルにするべきなんだろうか、などと思ってしまいました。

 全体的に読みやすくて悪くはないと思うんですけど、前回の「背の目」の時に比べて今回は真備がすんなりと腰を上げたのが納得しかねます。
 たとえば血の涙を流す聖母マリア像の話も出てきますが、この手の話は霊云々の話ではなく奇跡や怪奇現象と呼ばれるものです。本来なら真備は見向きもしないネタの筈です。


 彼は霊というものが本当にあるのなら亡き妻にもう一度会いたい、そういう理由で霊現象探求を始めたはずです。そのために霊の存在を確認できそうな事件の蒐集を始めたのに、今回の事件はおよそそういう霊的な現象とは呼べないと思うのです。

 何せ相手は仏。仏像です。人の怨念のようなものが仏像に憑依した可能性でも考慮したのでしょうか。どうせ憑依するなら、いや憑依することが可能なら仏像ではなく恨みのある本人に憑依した方がいろいろできそうな気もしますけども。

 内容が面白いかどうか、これは読む人次第になるので何とも言えませんが、伏線の張り方や回収といった技術的な面は評価できると思います。

2013年11月7日木曜日

「グレート・ギャツビー」フィツジェラルド (新潮文庫)


あらすじ
第一次世界大戦後のニューヨーク郊外に、謎の富豪ギャツビーは住んでいた。
彼は一体何者なのか。
彼が開くパーティーに訪れる者たちは、招待された者もそうでない者も、およそ誰も彼の正体を知らない。

そしてぼくは彼の豪奢な邸宅のすぐ隣に住む、ただの証券マンだ。
まるで別世界に住む彼とぼくがどうして関わりを持つようになったのか。
ぼくが目にしたギャツビーという男と、その周りの人物たちについて話していこうと思う。

 まず翻訳小説ということもあり、翻訳家の違いによって読みにくかったり、何を言ってるのかさっぱりわからない、そんな場面がちらほら出てきます。そのため話の筋まで、ややもするとわかりにくくなります。

 今回私が読んだのは新潮社から出ている、野崎孝訳のものでしたが、話の筋を手っ取り早く知りたいという方なら、小川高義訳の光文社古典新訳文庫版の方がいいかもしれません。他に村上春樹訳のものも読んでみましたが、村上春樹版が一番現代語に近く、読みやすいかもしれません。

 話の筋自体はシンプルです。正直、何の面白みも感じられません。
 この小説の魅力の一つは、著者の経歴や時代背景を加味してはじめて楽しめるものかと思います。そしてもう一つの魅力は、英語独特の隠喩を凝らした言い回しでしょうか。

 この隠喩を凝らした言い回しのため、何のことについて書かれてるのかわかりにくくなるんですが、この比喩的表現がなければ、本当に無味乾燥な物語になります。

 そういう意味では野崎孝訳は原作に忠実な訳で、味わい深いものとなっていると思います。ただ表現が古いんですね。女性が自らを言い表す一人称「あたい」は、流石にもう使わないですよね。

 そういった古臭い言い回しを現代の言葉に置き換えて、原作に忠実な訳で味わい深いものにしつつ、わかりにくい隠喩は日本語でもイメージしやすい形に訳されているのが、村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」だと思ってもらえるといいかと思います。


 さて内容についてですが、筋自体はシンプルなため油断をするとすぐにネタバレになりやすいので、筋とは関係のないところで引っ掛かったところを挙げてみようと思います。

 この物語では絶えず、現代人の孤独が浮き彫りになっています。現代に限らず、はるか昔から人間の孤独を描いた物語は多いので、今更という気もしないではありませんが。

 ギャツビーは財産という金銭的な繋がりで周囲に人が溢れていますが、それはあまりにも希薄な繋がりだったことが描かれています。どこか芥川龍之介の「杜子春」を髣髴とさせるところがあります。もちろん「杜子春」では切実な男女の色恋の話は出てきませんが。

 ギャツビー以外の人物にしても、ギャツビーのような金銭的な繋がりを持たないだけで、みんな等しく孤独です。
 主人公はその孤独感を郷愁の気持ちにすり替え、生まれ故郷へと帰り、ギャツビーは二度と返らないデイズィとの日々を取り戻そうと突き進んでいたのではないでしょうか。
 彼が唯一人間らしくあることができた、彼女と繋がっていたあの頃に帰りたかったのではないでしょうか。