2012年11月25日日曜日

「ソードアート・オンライン (3)~(4)」川原礫 (電撃文庫)


あらすじ
SAOがクリアされて約2か月。
桐ヶ谷和人は現実世界への帰還を果たしていた。
だが彼がSAOでの2年間の生活を送るの中で知り合い、これから先、共にあることを誓い合った少女、結城明日奈は帰還していなかった。

病院のベッドで今も眠り続ける明日奈。
不安に苛まれながら病室の彼女を見守ることしかできない和人だったが、ある日VRMMORPG「アルヴヘイム・オンライン(ALO)」の中で明日奈らしき人物を捉えた画像をかつてのSAOでの戦友エギルから見せてもらう。

画像は不明瞭ではあったが、確かにそこに映るのは明日奈に見えた。
和人は真実を確かめるため、再びあの忌まわしい仮想世界へとダイブした。

そしてALOで成り行き上知り合ったエルフの剣士・リーファと共に、明日奈が目撃されたというALOの中心《世界樹》を目指すのだった。

 SAOからの脱出に成功したものの、ゲームの中で契った女性が戻らない。そこで助けに行っちゃうぞーっ!というお話で、(3)が上巻、(4)が下巻です。
 あれほど嫌な経験をしたというのにもかかわらず、主人公はまたも仮想現実へ無双しにいきます。ええ。無双ですよ、無双。そしてまたモテモテですよ。さらに! 今度のヒロインは! 胸が! デカイ!

 ゲーム世界の好き嫌いで言いますと、前作のアインクラッド篇の方が好みです。魔法が出て来ちゃうと基本的に何でもありな気がするんですよね。後から後から、こんな魔法もあるんだ! とかいう展開がちょっと反則かなって。ソードスキルにしても後からいろいろ設定が出てきて、主人公が負けないための設定のような気がして仕方がありませんでしたが。

 でも今回一番無理があると感じたのは、開始からわずか数日で最終ステージまで到達し、その上攻略までするという道程でしょうか。最終ステージにそんな簡単に辿り着けるって、実際にはクソゲーですよね。
 辿り着いてもいろんなフラグを先に攻略しておかないとクリアできない仕様なので、到達自体はさほど難しくなくても問題ない、という設定なんですけどね。



 でもまぁいいでしょう。チートだろうが何だろうが、今回はゲーム攻略が主眼ではなく、愛する明日奈救出が最重要目標ですから。
 いやぁ、でも、システムを意志の力で超えるとかね、いくらなんでも無理なんじゃね?
 前作にしてもそうなんですが、そこが本来一番無理なところと言いますか、その越えられる根拠がどこにも見当たらないのが残念ですね。ハッタリでもいいから適当に、コレコレこういう理屈で意志はシステムを超えられるんだ! みたいなものを書いておけばいいのに、とは感じました。

2012年11月17日土曜日

「ソードアート・オンライン (1)~(2)」川原礫 (電撃文庫)


あらすじ
世界初のVRMMORPG(仮想現実空間内、多人数参加型ロールプレイングゲーム)「ソードアートオンライン(SAO)」の正式サービスが開始された。

ナーヴギアと呼ばれるヘッドギアを装着し脳への電気的刺激を与えることで、プレイヤーはゲームソフトが作り出す仮想現実空間内で全体感型のゲームを楽しめるというものだ。
SAOはサービス開始初日には一万人が参加するという大盛況振りで、それまでのゲームの常識を覆す革新的なゲームだった。

だがゲームからログアウトできない不具合にプレイヤーたちが気付く頃、ゲームマスターにして開発者である茅場晶彦がゲーム内アナウンスで宣言する。

SAOから自発的ログアウトができないことは不具合ではなく仕様であること、ゲーム内で死亡すれば現実世界のプレイヤー自身も死亡すること、そしてボスを倒しゲームをクリアすることだけがこの世界から脱出する唯一の方法であること。

そのアナウンスを聞きながら、プレイヤーの一人、桐ヶ谷和人はかつて雑誌のインタビューで茅場晶彦が口にしていた言葉を思い出していた。

――これはゲームであっても遊びではない。

こうしてゲーム参加者1万人の悪夢は始まったのだった。

 アニメを観たところ面白かったので、原作の小説の方にも手を伸ばしてみました。いわゆるライトノベルと呼ばれるジャンルですね。何をもって「ライト」なのかはよく知らないのですが、気軽に読める小説ですね。

 最新の技術を駆使したゲーム機で仮想現実にどっぷり使って、ゲーム内のキャラになりきって遊ぶというのは、ゲーマーであれば確かに憧れる世界ですね。
 難しく考えるとゲームよりももっと違うことに使われるべきシステムで、使用する上で厳重な注意が必要なのもののようにも思えますが、あくまで娯楽小説ですから、この程度のことで目くじらを立てたりはしません。



 内容的には主人公が無双の強さでモンスターをバンバン倒していくという話なので、強い主人公がひたすら活躍するストーリーが好きな人は嵌ると思います。
 個人的にはライトノベル全体に蔓延する、理由無きモテが許せません。容姿が良い訳でもなく、性格もごくごく平凡で何の特技もなく、ただ何となく惰性で生きてるようなモブのような主人公キャラが、何故か美少女にモテまくるというアレです。

 「ソードアート・オンライン」の主人公はゲーム内での圧倒的な強さがあるので、まだ許せそうな気もするんですが、ただ強いだけでモテる訳がないのです。いや、モテてもいいんですけど、好意を寄せてくるのが美少女ばかりなのが、気に入らないのです。
 ヒロインが主人公に好意を持ち始めるエピソードにしても、「え? その程度のことで好きになりますか? だったら僕も好きになってくれないとおかしいです」と異議を唱えたくなります。

 それ以外は主人公が活躍してすっきりする感じのお話で、VRを採り上げた近未来SF的な世界設定など個人的には結構好きです。
 ちなみに(1)が本編で、(2)の方はエピソード集となっていますが、主人公とヒロインの出会いの辺りの時系列が若干おかしなことになっています。本来なら(1)の本筋の合間に時系列に沿って(2)のエピソードを加えつつ、上下巻というボリュームにまとめて矛盾をなくすのが最良だったんではないかと思われます。

2012年11月13日火曜日

「百器徒然袋 雨」京極夏彦 (講談社文庫)



 京極夏彦氏の「百鬼夜行シリーズ」のスピンオフ小説で、シリーズ最大の謎の怪人・榎木津礼次郎が主人公の中編集です。「鳴釜(なりかま)」「瓶長(かめおさ)」「山颪(やまおろし)」の三編が収録されています。

「鳴釜(なりかま)」あらすじ
妹のように思っていた姪の早苗が首吊り自殺を図った。
紐が切れたお陰で未遂に終わったとはいえ、僕は犯人が許せなかった。
だからと言って、どうこうしようという考えはなかった。
犯人はわかっていた。
相手は通産省官房次官の息子つまり官僚の息子だ。
訴えたところで勝ち目はない。
ただ誠意のこもった謝罪の言葉、真摯な反省と悔悟の表明、そういうものを早苗に見せて欲しかったのだ。
だが彼らは被害者であるはずの早苗を穢らわしいものを見るようにして、まともに相手にしようともしない。
僕は遣り切れなかった。
苛立ちが
――じわり。
――じわり。
と胸の内、腹の底、身体の芯、
いやもうどこからなのかわからない、身体全体からなのか、どす黒く芽吹いてくるのだけがはっきりとわかった。
その時――。
「馬鹿かお前達は」
彫像のように顔の整った長身の男が口を開いた。
「悪い奴は退治するんだ」
こうして僕は事件を解決しない探偵・榎木津礼次郎に今回の依頼をすることになるのだった。

「瓶長(かめおさ)」あらすじ
「カメだカメ。カメを探せと云うことだ!」
榎木津礼次郎は機嫌が悪かった。
どうやら父親にカメを探すように依頼されたらしい。
聞けば、日タイ通商協定を控えた大切な時ということもあり、タイ国との国際的な問題に発展しかねない話なのである。
榎木津の父親の部下が、タイの王族に連なる身分の高い人物が所有する甕だか壺だかをうっかり割ってしまったらしい。
そこでお詫びに代わりの壺を贈ったところ、全然気に入らなかったらしく、割ったものを元に戻せとまでは言わないが、せめて同じものを寄越せと言ってきたらしい。
それが砧青磁の甕だと言う。
さて榎木津一味たちは目当てのカメを無事手に入れることができるのか。

「山颪(やまおろし)」あらすじ
先日の大磯事件のあらましを聞きたかっただけだというのに、意地汚い野次馬根性が災いしたのか、何故か僕は事件に巻き込まれることになった。
箱根から下山した常信という和尚は、旧知である亮沢和尚に電話をしてみたところ一向に話が通じない。
どうもいろいろ腑に落ちない。
そこで榎木津に事情を話して事の真相を調査してもらうつもりだったらしい。
ところが榎木津は先の大磯事件の件で多忙なため、常信とは知らぬ間柄ではない京極堂が代わりに手掛けることになったのだが、およそ何の関係のない僕まで一役買う羽目になるのだった。


 物語中の事件は「百鬼夜行シリーズ」に比べて血生臭さはありません。強姦事件、詐欺事件、美術品窃盗団の悪事を、勧善懲悪ならぬ「勧榎木津懲悪」で解決していきます。
 ですがただの推理小説や犯罪小説のように、単純に事件の犯人達にお仕置きをしていくわけではありません。そこはやはり「百鬼夜行シリーズ」のスピンオフです。妖怪が出てきます。正確には妖怪になぞらえて退治する、と言う方が的を射てると思います。

 出てくる妖怪は鳥山石燕の妖怪画集「百器徒然袋」からの登場となり、ここで表題が絡んでくるわけですね。
 「百器徒然袋」に納められている妖怪は、「器」の文字が示唆する通り付喪(九十九)神です。この付喪神に纏わる逸話をいつものように京極堂の薀蓄が肉付けし、いつもと変わらず支離滅裂な榎木津礼次郎が傍若無人に解決、いや悪者を退治していくという筋ですね。
 推理小説というよりもむしろ特殊な能力を持つ榎木津だからこそできる、悪者を妖怪に見立てた破天荒な退治劇でした。

2012年11月8日木曜日

「海と毒薬」遠藤周作 (新潮文庫)


あらすじ
気胸を患う「私」のために、引っ越してすぐに妻が見つけて来てくれた勝呂(すぐろ)医院に通うことになったが、この勝呂医師はどうも少し変わった人物で愛想がない。腕の見事さは気胸の処置を受けた「私」自身が知るところではあったが、にも関わらず「私」はこの医師に不安を感じずにはいられなかった。
しばらくして義妹の結婚式に出席した「私」はそこで人づてに、勝呂医師の過去を思いがけず知ることとなってしまった。
彼は太平洋戦争中、捕虜の米兵を臨床実験被験者として使用した生体解剖事件に関わった一人だったのだ。
そして物語は事件に関わった勝呂・戸田・看護婦の視点で淡々と語られていくのだった。

 実際にあった九州大学生体解剖事件を題材とした小説なのですが、読後の感想としては作者の訴えようとするテーマがどうも見えづらい感じがしました。

 遠藤周作氏はカトリック派キリスト教信者として広く知られていますが、まさか「罪の意識や倫理の欠如は、神への信仰を持たない日本人だったからだ」と言う主張をするための小説とは、私には思えないのです。

 医者が人命にかかわる人体実験を行うことは悪である。そして戦争とは人命を預かる医師ですらもその倫理観を狂わせ、間違わせる。まずこの辺りが一般的な認識なんだと思います。
 ここにキリスト教か否かという問題が入り込むのは、どうも不自然な気がしてなりません。


 戦争という時代状況であったという事実や、軍が良いと言ったからとやったという言い訳は、トルストイの「光あるうちに光の中を歩め」の中で、良い生き方を知っていながらいざ実行する段になるとあれこれと言い訳をして、結局何も実行に移さない人々の姿と通じる部分があるように見えないでしょうか。

 「光あるうちに光の中を歩め」は一見すると宣教的な書物ですが、現代に照らして読むと宗教に限った話ではなく、普遍的な倫理観とそれを目先の利益のために受け入れられず、間違っていると感じていながら間違いを正さないで生きる人々の話として読むことができると思います。

「光あるうちに光の中を歩め」トルストイ (岩波文庫) - 読書記録







 この「海と毒薬」も、本来そういう読み方をするべきなのではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。
 「光あるうちに光の中を歩め」では、俗世の人ユリウスは最後には光の中を歩むに至りますが、「海と毒薬」ではその部分がなく、どうにも救われない気持ちのままラストを迎えてしまいます。
 何ともすっきりしない、後味の悪い話だと思いました。