2012年9月30日日曜日

「龍は眠る」宮部みゆき (新潮文庫)


あらすじ
記録的な豪雨の夜、雑誌記者の高坂昭吾は道端で自転車をパンクさせて立ち往生をする少年・稲村慎司と出会う。
不思議な雰囲気を持つ少年だった。
二人は道にぽっかりと開いたマンホールを見つけ、そこに濁流が凄まじい勢いで流れ込んでいく様子を目にした。
それは気付かずにうっかり落ちてしまえば、まず助からないであろう小さな闇だった。
そして事件は高坂たちが心配するよりも前にすでに起きていた。
小さな子供の失踪事件。
子供の持ち物である傘がマンホール近くに落ちており、
おそらくはそのマンホールに落ちてしまったのだろうと誰もが最悪の結果を推測できた。
子供の傘を手に取った稲村慎司はぽつりぽつりと口を開き、事の成り行きをまるで見ていたかのように話し出す。
なぜマンホールは開いていたのか。事故は意図された、悪意ある悪戯だったのか。
事故の取材を続ける高坂昭吾の元には奇妙な手紙が届くのだった。

 評価の高い宮部みゆき氏の小説初読です。
 本屋でも良く見かける作家さんだったので一度読んでおこうと、初期作品とは知らずに読んだのですが、私にはなぜこの小説に対しての一般的な評価が高いのか、判り兼ねます。


 登場人物の稲村慎司少年はいわゆる超能力者で、人や物から残留思念を読み取る能力を持つわけですが、決して超人というわけではありません。視力や聴覚が人よりちょっと優れている程度の超能力者とでも言えばいいでしょうか。

 人間的な部分は年相応の非常に未成熟な人物として描かれます。そういう人物設定のリアリティについては、確かに評価するべき点があると思います。
 ですが肝心のストーリーの方はといえば、極めて淡々と進行し、退屈を覚えました。どこを面白いと思えばいいのかが私にはわかりませんでしたし、感動などは微塵も感じませんでした。

 ミステリー要素がちゃんと盛り込まれていますから、話が進むにつれ、隠された真相が徐々に明らかになる展開が大好きなミステリーファンには楽しめるのかもしれません。
 それでも平坦な進行、きちっとしすぎの観のある人物設定など、初期作品ということで目を瞑るにしても、今日ほどの高い評価を得る内容だろうかといまだに首を傾げる次第です。

 個人的な意見としては、いわゆる善人が多すぎる物語と感じました。つまりそこが一番リアリティや共感を覚えなかった部分であり、それゆえに面白みを感じることができなかったのではないかと思っています。

2012年9月21日金曜日

「モダンタイムス」伊坂幸太郎 (講談社文庫)


あらすじ
「勇気はあるか?」
目の前の体格のいい男にそう問われた渡辺拓海は
「実家に忘れてきました」と答えそうになるが、止めた。

拷問を受け、危うく手指の爪を剥がされる羽目になるも何とか難を逃れる。
渡辺拓海の浮気を疑う妻が、白状させようと男に拷問を依頼したのだ。

翌日の会社ではいつものごとくシステムエンジニアとしての過酷な仕事が待っていた。
失踪した前任者の後継として依頼されたシステム改良の簡単な仕事だが、システムに暗号化された部分を見つける。
解析すると、その部分からいくつかのキーワードが見つかった。
「安藤商会」「播磨崎中学校」「個別カウンセリング」

これらのキーワードで検索してみた後輩の大石倉之介や会社の上司・加藤課長の身に、相次いで不自然な災難が降りかかる。
「検索」して出てきたのは、ある出会い系サイト。
今回の仕事の依頼元ゴッシュの運営するサイトだ。
これは一体どういうことなのだ。
妻の恐ろしい追及に迫られつつ、渡辺拓海はこうして謎に巻き込まれていくのだった。


「検索から監視が始まる」がキャッチフレーズの伊坂幸太郎氏の集大成的長編小説です。
同時期連載の「ゴールデンスランバー」と双子のような作品と言われる通り、扱うテーマに近いものが見られます。

一般的には「ゴールデンスランバー」の方が人気があるようなんですが、個人的にはこちらの「モダン・タイムス」の方を高く評価したいと思っています。
一番大きな違いは面白さ、エンターテイメント性を追求する姿勢です。
この違いは「モダン・タイムス」が掲載された媒体の影響を挙げれると思います。

「モダン・タイムス」は、講談社の週刊漫画誌「モーニング」で連載されました。
当然、他の連載陣は全て漫画作品です。
このような環境の中で人気を保ちつつ連載を続けるには、他の連載漫画に負けない面白さが要求されるはずです。

小説は高尚なもの、漫画は低俗なもの、とお考えの方には、迎合主義的な漫画と小説を一緒の媒体で扱うことに眉根を寄せる方もいるかもしれません。
ですが、その狭小な考えや決め付けこそが、小説雑誌の低迷を表していると私は思っています。
歌舞伎や狂言と同じです。
高尚な娯楽だと持ち上げられている内に、いつしか誰もが気軽に楽しめる娯楽としては見向きもされなくなって、もはやその存亡すらも危い状態にまでなっているのではないでしょうか。

より多くの人を楽しませることが娯楽の本筋です。
コーアルベキ症候群に罹った人たちが、あれこれ口を挟めばそれだけ娯楽の間口は狭くなるんです。
このような生き残りを賭けてエンターテイメント性を追求することになれば、当然毎回盛り上がる場面や見せ場山場が必要になります。

小説の場合、一作品の中で盛り上がりを見せる場所は大抵1箇所です。
そこに至るまで綿密に伏線が張られる描写が続き、クライマックスで全ての伏線が収束していくという様相を目の当たりにして面白さを感じるわけです。

人によっては当然そのクライマックスに至るまでの描写はたとえ伏線だとしても、退屈な描写と感じるかもしれません。
週刊連載は競争です。
毎回毎回、人気を獲得しなければ生き残れません。
連載が続けられません。
退屈な描写が続けば、たとえ後半盛り上がるんだと言われても、そっぽを向かれます。

小説と漫画は違うから、と鼻で笑っている場合ではありません。
娯楽という大きな枠での競争では、すでに小説は漫画に遅れを取っているという現実に目を向けるべきです。
「モダン・タイムス」は一つの可能性を我々に見せてくれました。
漫画に負けず、面白さで張り合い、毎回毎回山場を作り、娯楽として楽しませてくれました。
小説はコーアルベキなんて言ってる場合じゃありません。
漫画と同一媒体で連載され、なおかつそれで一番人気を取れるような面白い小説を私は読んでみたいです。

ともあれ「モダン・タイムス」はそんな特殊な環境で書かれた作品のためなのか、これまでの伊坂氏の作品よりも伏線の回収が若干甘いです。
今までであれば、あの時のあれが伏線でここでそう回収するのか! と驚かされていたのですが、「モダン・タイムス」では気になる点が2~3残されたまま終わっています。

大局的な筋としては特に問題のない部分ですが、やはり気になるものは気になります。
その点を除けば、小刻みに訪れる山場、テーマ性、伊坂氏独特の人を食ったような登場人物たちの会話とどれも魅力的です。
現時点では、これこそ伊坂幸太郎の集大成となる作品だと言っていいと思います。

余談(1)
チャーリー・チャップリンの作品に同名タイトル「モダン・タイムス」がありますが、扱うテーマは似たところがあります。
資本主義社会を生きる中、人間の尊厳が失われ、機械の一部品のようになっている人の世を笑いで表現し、
最後に主人公と少女の2人は、現代社会の冷たさと束縛に囚われない自由な生活を求め、旅立っていく。
というのが、チャーリー・チャップリンの「モダン・タイムス」のあらすじです。

余談(2)
yahoo!の検索エンジンで「安藤商会 播磨崎中学校 個別カウンセリング」と入力し、
検索を行うと「出会いすぎちゃうくらいに出会っちゃう『ある出会い系サイト』」が本当に表示されます。
※講談社がネタ的に立ち上げたサイトなので安心してご覧頂けます。


2012年9月10日月曜日

「孔子」井上靖 (新潮文庫)


あらすじ
孔子没後33年後の魯(孔子の生まれた国)の小さな村で、世に知られざる弟子薑(えんきょう)の口から思想家孔子の人間像が静かに語られる。
「天命」や「仁」といった、乱世に生きた孔子の言葉や教え、生き方、また孔子の高弟達の人物像について、薑(えんきょう)が孔子研究会の者たちに語る内容とは……。

 弟子の薑(えんきょう)とは架空の人物であり、この彼の口を通して作者井上靖の孔子解釈が語られる体裁になっています。その中で特に強調されているのは「乱世」を如何に生きるか、ということです。
 正直に言いますと、よくわからなかったです。作品中で語られる「天命」や「仁」についても、わかったようなわからないような、いやきっとわかっていません。


 とりあえず紀元前の人間のお話なので個人的には今を生きる人間の考え方を通して、果たして当時の人間の考え方を解釈できるものなのか、という疑問が湧いてくるんです。
 例えば「人が二人」と書いて「仁」、そこで相手を思いやる心が生まれれば、それが「仁」だと、ここまではわかりやすくていいのですが、これが人同士ではなく、為政者と一般の民との関係では少し意味合いが違ってくる、と言われるところに来ると、よく分からなくなるんですね。

 そもそも思いやるという「心」は同じであっても、そこから発生する実際の行為は時代や地域、文化などによって左右されると思うんです。
 例えば日本の切腹に付き物の「介錯いたす」なんて行為は、日本以外の国から見たら残酷な行為にしか見えないんではないかな、とかですね。

 全体的な感想としましては、人の力なんて自然の力に比べたら非力でしかないし、そもそも物事というのは「なるようにしかならん」のだから、できること、やるべきことだけしたら、あとは静かに物事の成り行きを見守るしかない、という解釈のようにも私には思えました。