2012年8月31日金曜日

「嗤う伊右衛門」京極夏彦 (角川文庫)


あらすじ
小股潜りの又市は民谷又左衛門の娘、岩の仲人口を頼まれる。
又市は過去に、窮地を又左衛門に救われた恩義もあり、この依頼を引き受け、その婿として境野伊右衛門を斡旋する。
ついぞ笑ったことがないと言われる摂州浪人、境野伊右衛門。
疱瘡に罹り、醜い顔となってしまっても凛とした態度を保ち続ける民谷岩。
いまだ語られることのなかった、新たな四谷怪談の始まりである。

 四谷怪談といえば幼い頃にテレビ放映の映画を観て、すごく怖い思いと、おどろおどろしい不気味な思い、そして岩を不憫に思う気持ちになったことだけは覚えているのですが、さて詳しい話の筋はどうだったのかというと思い出せません。

 この京極節で描かれる四谷怪談は、私のうろ覚えの話の筋とは明らかに違っています。
ですが、私は断然「京極流四谷怪談」の方が好きです。
 これまでの百鬼夜行シリーズでも見せてきた、京極氏独特の世界観や解釈によって人間心理が描写され、狂気と愛憎の物語は展開していきます。

 切ないです。悪役が憎くて憎くて堪りません。そして伊右衛門と岩の互いを想う気持ちが、これでもかと言う程にすれ違う様にヤキモキしてしまいます。

 ついぞ笑ったことがない伊右衛門が、ついに笑顔を見せた時とは……。


 京極氏の「巷説百物語」シリーズの又市が登場し、伊右衛門と岩を引き合わせる大役を担っています。視点を変えると、
「え? あの又市がこの日本の代表的な怪談の始まりに大きく関係していたって言うんですか!?」
とも思えるわけで、京極氏は日本文化の歴史を改変でもする気なのか、とも思えます。
 いや、冗談ですが、そのぐらいの出来の良さだと言いたいのです。

 冗談がてらもう一つ付け加えるなら、もしこの物語に京極堂が憑き物落としに登場していれば、きっと「四谷怪談」の悲劇も起こることなく、日本の代表的な怪談の一つが失われていたことでしょう。
 是非読むことをお勧めしたい一冊です。

2012年8月26日日曜日

「呪われた町」S・キング (集英社文庫)


あらすじ
町を題材にした小説執筆のため、幼い頃を過ごした町に舞い戻った小説家ベン。
幼かった自分に底知れない恐怖を抱かせ、今も変わらぬ畏怖を抱かせる呪われた屋敷「マーステン館」は、昔同様に今も不吉の象徴として丘の上に建ち、町を見下ろしていた。
少年の行方不明事件を皮切りに、町の人間に不可解な死が続き、さらにはその遺体までもが次々に消失していく。
マーステン館の新たな住人の不審な影が見え隠れする中、ベンたちはこれらの謎に迫ろうとマーステン館へと足を運ぶのだった。
 アニメの「屍鬼」を観て、その元ネタになったという本作品「呪われた町」を読んでみました。ちなみに「屍鬼」の小説の方は未読です。

 大雑把な感想としましては、妙なリアリティがあるホラー小説、といったところです。
 前半、主人公を含め、いつも通りの日々を送る町の住人達の姿が細部に至るまで描写されています。この辺りの描写もおよそ荒唐無稽とも言える本作品にリアリティを与えている要素の一つだと思えました。


 吸血鬼といえば当然怪物の類であり、空想の産物です。その能力も現実にありえないものばかりです。「呪われた町」に出てくる吸血鬼も様々なありえない能力を持っているのですが、どちらかというと人間同様に現実の様々な制約を受ける生身に近い怪物です。

 例えば町に吸血鬼がどのように侵入してくるのかお話しますと、イギリスから船便で荷物として送られてくるんです。あとマーステン館に住み着くわけですけども、これも不動産業者を介して購入します。
 夜の間に空を飛んでくればいいのに、とか屋敷の所有者を操ってこっそり住んじゃえばいいのにとも思うのですが、そこにはおそらく言うに言えない彼らなりの事情があるんでしょう。

 その辺りの事情が描写されてると、もっと良かったと思いますが、こんな感じで妙なリアリティがあるんです。この妙なリアリティが本作品を荒唐無稽な物語にさせなかったのだろうと思います。

2012年8月21日火曜日

「どすこい。」京極夏彦 (集英社文庫)


あらすじ
地響きがする―と思って戴きたい……。

 京極夏彦氏による、数々の名作のパロディ小説です。
 あれ? あらすじの続きは? と思われるかもしれませんが、これでいいんです。……たぶん。

四十七人の刺客
すべてがFになる
リング・らせん
パラサイト・イブ
屍鬼
理由
ウロボロスの基礎論






四十七人の力士
すべてがデブになる
土俵(リング)・でぶせん
パラサイト・デブ
脂鬼
理油
ウロボロスの基礎代謝

 といった按配で全7話からなります。元ネタになっている小説を知ってる必要はありません。とはいえ、メジャーなタイトルばかりですのでご存知の方は多いかもしれません。


 各話をつなぐキーワードは「でぶ」

 そこに元の小説の要素が少し絡んできます。
 例えば……
「四十七人の力士」は赤穂浪士の忠臣蔵っぽいような話。
「パラサイト・デブ」ではミトコンドリアが絡んできます。
 部分的に取り入れつつ、本当にくだらない話が続きます。
 ギャグ小説として面白いか、というと……。

 京極氏のセンスが光ってるなぁと思ったのは、最終話でまさにウロボロスのごとく1話目に戻るという展開。そして1話目に戻って、何度も読み返すかというと……。
 そんな小説でした。

2012年8月16日木曜日

「リンカーン弁護士」マイクル・コナリー (講談社文庫)


あらすじ
高級車リンカーンの後部座席を事務所代わりに使う刑事弁護士ミッキー・ハラー。
別れた妻と娘を気にしつつ、終始家のローンの支払いに追われていた彼は、弁護士業をビジネスと割り切り、日銭を稼ぐようにこまめに事件を拾っては弁護士報酬に結びつける日々を送っていた。
そんな彼のもとに高額報酬を約束する事件が舞い込んだ。依頼人はルイス・ルーレ。資産家の息子だ。容疑は婦女暴行。久々の儲け話に意気込むハラーだったが……。

 先に映画で「リンカーン弁護士」を観たのですが、展開が早くて、
「あれ? 何であそこであーなったんだろう」と疑問に思ってたところを解消するために読んでみました。
 専門的な用語などが多く盛り込まれていて、前半は若干取っ付き難い印象がありますが、読み進めていくとどんどん引き込まれていきます。

 依頼人が事実犯人なのか無実なのかよりも、報酬の支払い能力があるかないかの方が重要な弁護士ミッキー・ハラー。支払い能力があるなら報酬に見合う労力を払って無実を、あるいは極力容疑者に有利な判決を勝ち取ろうとする姿勢は、一般的には正義とは程遠いところのものです。今まであまり見ないタイプの主人公です。

 そんな彼が最も恐れるのは、依頼人が本当に「無実の依頼人」=冤罪だった場合です。
 彼は今まで、自分は「無実の依頼人」であると依頼人がいくら主張しても、どうせ嘘に決まっていると決め付けて仕事をこなしてきました。そこへまた「無実の依頼人」を強く主張する、金づる候補の依頼人ルイス・ルーレに出会い、もしかすると今度こそ本当にその「無実の依頼人」なのかもしれない、と思い始めるのですが、話はここからが面白くなってきます。


 映画と比較するのはあまり意味がないと思いますが、小説の方はもう少しすっきりした内容にできたような感じはします。映画の方は逆に内容を端折り過ぎてて、分かりにくいところがありましたけども。
 面白さだけで言えば、かなり面白いです。アメリカの裁判事情など社会的な問題も取り上げられている点も評価できると思います。

2012年8月11日土曜日

「狂骨の夢」京極夏彦 (講談社文庫)


あらすじ
神を信じ得ぬ牧師、白丘のもとにやって来た女、宇田川明美。
彼女は、殺しても殺しても生き返り自分を訪ねてくる夫を四度殺したと告解する。
教会に居候をする元精神科医、降旗は白丘と共に彼女の話を聞き、その話を夢か、彼女の精神が疲れているものかと考えるのだが。
夢と現実の狭間に揺れ悩む三人の前に、海に漂う金色の髑髏事件、逗子湾生首事件と怪事件が続発する。
釣堀店主・伊佐間、小説家・関口、刑事・木場らも見守るなか、京極堂は憑物を落とせるのか?

 髑髏すなわち頭骨をめぐる悪夢のような過去を持つ人々が出てきます。いや、ここはむしろ髑髏に取り憑かれた人々と言うべきでしょうか。
 話中の過去の「佐田一家焼殺事件」「兵役忌避者猟奇殺人事件」は戦中の事件ですが、これらもすべて髑髏に取り憑かれた人々によって引き起こされます。
 また元精神科医の降旗と牧師・白丘が経験した出来事はあまりにも現実離れしたもののため、本人達は夢と思い込んでいましたが、それもまた髑髏に取り憑かれた人々による現実の出来事だったというオチです。


 そんな髑髏にまつわる悪夢に取り憑かれた人々の全ての原因は、実は宗教的な教義や儀式といったところから来ます。いわばこの宗教的な部分がこの話の謎解きの要になって来るのですが、一般的な人は知りえないような知識や情報でもって、京極堂が解決に導きます。

 「狂骨の夢」がこれまでの2作品「姑獲鳥の夏」「魍魎の匣」に比べて、評価が概ね低い理由は、ここにあると思います。
 今までは話の前半において、謎解きのヒントや解決に至る認識や観念についての説明が、京極堂によって語られていました。そして後半において、「なるほど。そういうことか」と理解を得て、読み手を驚かせていたのです。

 今回は謎解きの要になるべき知識や情報が京極堂しか持ち合わせてなく、また読み手に提示するのは謎解きの時のみです。全て後半の謎解きの際に、京極堂が一気に語ることで話は収束していきます。
 宗教的な教義や儀式についての知識や情報といったものが、一般的に自明のもの、いわば説明不要のものであれば、こういう手法もありかとは思うのです。ですが、実際のところはどうなんでしょう。
 今回はちょっと残念な感想になってしまいました。