2012年5月25日金曜日

「アルジャーノンに花束を」ダニエル・キイス (ダニエル・キイス文庫)


あらすじ
知的障害を持つ32才の男性チャーリーの知能は、およそ6才ぐらいである。
彼はビークマン大学の心理学、脳外科チームの実験的手術により、IQ180の知能を手に入れることになる。
だが天才的知能を手に入れた彼を待っていた世界は、手術前の彼が思っていたような世界ではなかった。
それに付け加え、知能こそ天才と言えるレベルに達したものの、彼の心、情緒は幼いまま。
そんな彼の目の前に現れる様々な人、出来事、そしてそれまで思い出すことができなかった自分の過去。
チャーリーは果たして、彼が憧れ続けた正常な一般人たちの仲間入りができたのだろうか。
そんな彼に訪れるあまりにも現実的な結末とは……。

 かつて読んだのは確かモスバーガーで勤めていた時です。アルバイトの女子高生にさらっと「これ、いいですよ」と言われて、ハードカバーのこの本を渡され読んでみることになったような覚えがあります。
 初めて読み終わったその時は、もう嗚咽が止まりませんでした。ボロボロボロボロ涙が溢れてくるんですよ。読んだのが自分の部屋だったんで、誰の目を憚ることなく泣きました。
 ですが、今回読み直してみると、全然泣けない。以前読んだ時と何かが違うんですよ。というかストーリーの細かい部分とか忘れてて、こんな話あったっけ!? な状態だったので、さほど詳細に記憶してた訳じゃないんですけどね。


 この違和感を調べるために図書館へレッツゴー。
 以前読んだものはハードカバー本。今回は文庫本。その2つを図書館で比べてみました。
 まずこの2つを比較しつつ読むと、明らかにハードカバーの方が味わい深い感じがするんですね。次に、言葉遣いは文庫本の方が後から出版されてるため、細かい部分で訳し方が違う。ただ文庫の方は後から手直しされてる分、訳としては適切な表現になってるところが増えています。とはいえ、一部は元の方がよかったと思える箇所もあるんですね。
 不思議ですね。適切な表現と、いいと思える表現というのは、どうもイコールの関係ではないようです。

 いずれにせよ、どうやら私が感じた違和感は、この紙面の大きさから受ける印象と訳し方の違いによるもののようです。他に変わったものと言えば……読み手の私くらいのものでしょうか。
 何かちょっと寂しいですね。かつて泣くことができた私と泣けなかった今の私。私の何が変わってしまったんでしょうね。
 もしかすると私は、チャーリーがいかにも嫌いになりそうな人間になり果ててしまったのかもしれませんね。今となっては、それはそれで仕方がありませんけども。

2012年5月24日木曜日

「野菊の墓」伊藤左千夫 (新潮文庫)



 みなさんは本を読んで泣いたことってありますか? 私は自分で覚えてるだけで3冊あります。
「ごんぎつね」、「野菊の墓」、「アルジャーノンに花束を」の3冊です。

 たとえ一度は泣けたからといって、すでに読んでしまったものをまた改めて読んでみるって、すごくバカらしいような気もするんですけどね。何となく、泣けるほど感動できる本をまた読んでみたいなぁ、とか思ってしまった訳ですよ。

 あと泣ける話の分析ですね。どういうところに感動して泣けたのか。当時はそんなこと考えもしませんでしたけどね。
 とりあえずブックオフで「野菊の墓」と「アルジャーノンに花束を」の2冊を買い直して来て、再度読み直してみることにしました。


「野菊の墓」伊藤左千夫
 この小説は高校の時に、国語の課題図書で出されて仕方なく読んだものなんですね。当時の私はタイトルくらいは聞き覚えがあったんですけど、内容の方は全く知らなかったんですね。その時の感想文には、どんなこと書いたかなぁ。

 周囲の人の理解のなさだとか、主人公の不甲斐なさを指摘してたような気がします。
「民子が可哀想じゃないかっ!!」みたいな。

 今や私も、酸いも甘いも知ってる大人。しかももうすでに読んで、どんな結末が待っているかも知っている。
「さすがに今回は泣けんかなぁ。まぁ、それでも泣ける話の構成みたいなもん勉強するつもりで読んでみるか」
 気分は、そんな感じ。

 わずか70ページ足らずの小説です。文章も、古臭い言葉遣い満載。そもそも名前が「民子」って。ありえねーしw
 文体一つとっても、とてもじゃないけど流麗なんて言葉はそぐわない。絵で例えるなら、私がクレパスで描いた絵とどっこいどっこいなのでは?

 53ページ付近。あ、民子死んだ。
 61ページ付近。あー。墓だ。野菊がたくさんで野菊の墓だなぁ。
 65ページ……。
 (´;ω;`)ぶわっ。

 見事に涙腺崩壊。しかも家の近所のカフェで。みんな、何事かと見るわ見るわ。いやぁ、やられました。
 小説の内容について、これ以上ここで書くのは憚られるので割愛。書かれた時代背景とか書いていきましょう。

 「野菊の墓」が書かれたのは明治ですよ、明治。年表で調べると、同時代に書かれたものに夏目漱石の「坊ちゃん」があります。
 そこから40年ほど遡ると江戸時代ですよ、江戸時代。明治初期に起きた言文一致体が浸透してきたお陰で、それまで書き物には文語体が使われていたのが口語体が使われるようになり、今でもこうして読めるようになった訳ですね。

 「野菊の墓」の舞台は、関東地方の農村になっています。帝都東京に、ほどなく近いとはいえ農村。テレビもない時代ですし、文化や文明の伝わり方や浸透率も今ほどではないでしょう。
 そう考えると、小説の中で見られるような当時の農村での風習や慣わし、生活習慣・生活様式といったものなどは、ほぼ旧江戸時代末期のままに近いのではないでしょうか。

 それが口語体で書かれることで、逆に現在から遡って江戸時代に近い農村の様相を垣間見ることができる。
 これって、すごくないですか?
 空想や想像で作られた時代劇じゃなくて、リアルな当時の様子が見れてる訳ですから。

 さらに言うと、100年前も今も、人の思うところ、感じるところなんて何も変わらないんだなぁってこと。ということは、その前の100年とか、そのもう一つ前の100年に生きてた人たちも、おそらく今の自分たちと同じようなことを思ったり、感じたりしてたんじゃないのかな。

 日本の文化や文明といった生活のハード面は、どんどん時代に合わせて変化していってると思うのですが、当の人間、日本人自身のソフトの面は全然変わらずに、ずっとそこに立ち尽くしてる。
 そんなことをふと感じてみたりしました。

2012年5月19日土曜日

「十角館の殺人」綾辻行人 (講談社文庫)



 Twitterで、この本を推すようなつぶやきを見かけました。
 前回の「ダ・ヴィンチ・コード」で味をしめていた私は、ちょうど他にも楽しめそうな推理モノを探しているところ。これに乗ってみるか、と推してた人には内緒で、こっそり図書館で借りて読んでみました。

 ジャンルというのかカテゴリーというのか分かりませんけども、新本格推理小説という分類だそうです。何が本格で、何が新なのかはさっぱりな私です。とりあえず読んでみた感想を書くくらいしかできません。
 話自体はさくさく読めます。450ページほどで、遅読の私でも読むのにさほど時間は掛かりませんでした。話の内容は、これから読むかもしれない人に対してネタバレになってしまう恐れもあるので、詳細までは書けないのがやや残念。

 簡単にあらすじを話すと、ある連続殺害事件が半年前にあった孤島へ、7人の大学生が、所属する推理小説研究会の合宿として出掛けることになる。
 陸から切り離されたその孤島では、悪い冗談のようなメッセージが見つかり、その後メッセージの示唆していた殺人が次々と行われていく。
 彼らが孤島に着いたちょうどその頃、また別のメッセージが彼らを含む数人の家に入れ違いで郵送されていた。
 犯人は一体誰なのか。半年前の殺人事件と何か関係があるのか。犯人の動機は一体……。

そんな内容です。

  • 動機はまぁ、簡単に見当つきます。

  • 郵送されてきたメッセージの狙いは半分当たり、半分不正解。

  • 不正解だった狙いの部分に関しては、最後まで行かないとちょっと予想できない。

  • 半分当たりだったところから、半年前の事件の謎もおおよそ正解。

  • 犯人は誰なのか、の部分については、300ページくらいの段階で2択まで絞り込めた。

 ある人物について。
「こいつはミスリードする人か犯人かのいずれかだ。犯人ならもちろん、ミスリードする人なら最後まで残されるはず。いずれにせよ、こいつは最後まで残る。残り3人から2人になる時、こいつが犯人ならあいつが死んで、あいつと最後の対決って形じゃないと盛り上がらんよな。こいつが最後まで残るのは間違いないとして、ミスリードしてる人として残るなら、筋としては傍観のスタンスのあいつが犯人だよな」

 予想通りですた。え? 意味不明? いいんですよ、それで。
 で、そのどちらかが犯人で終了かな、というところで、最後に犯人の姿とトリックが明かされる。という流れでした。


 最後がなぁ。何か残念なんですよねぇ。移動時間と距離っていう要素は大事でしょ。そんな大事なもんを後から出されてもなぁ。
 一般的に「1時間以上」ってことは、1時間以上2時間未満のことでしょ? ちゃんとヒント出してるよ? と言われると、確かにそうなんだけども。
 2時間以上掛かるなら「2時間以上」、3時間以上掛かるなら「3時間以上」って言いますけども。
 でもやっぱり所要時間1時間くらいなら「1時間くらい」なんじゃないですかね。「1時間以上」とは言わんよね。
 「1時間以上」って言う時には、多分移動時間そのものだけではなくて、例えば途中で食事のためにどこか寄り道するかもしれない、あるいは不慮の渋滞なんかがあるかもしれない、その場合、もしかすると2時間とか3時間掛かるような際に、そのことを示唆する概念としての言葉遣いだと思うのですが。
 その場合、移動時間以外の何かを取り除いた、純粋な移動時間は? という問いに対して「1時間」という答えにはならないでしょう。

 気になったのは、このくらいで後はよく出来た話になってる印象です。論理的に考えることで、大方の部分は正解に辿り着ける内容になってます。

 さて本格推理っていうのは、何なんでしょうね。警察の介入がない、あるいは介入済みで、警察の出番はすでに終了したような状況での事件を、警察以外の人間が状況証拠などの手掛かりから、また読者は書き手の与える手掛かりから解決に至る話、ということなんでしょうかね。

 推理小説そのものが、もしかすると私の好みには合っていないのかもしれない。よくできた話だなぁと思って感心はするんですけどね。
 いい話だなぁと思えるようなのを、きっと私は求めているんでしょうね。

2012年5月10日木曜日

「ダ・ヴィンチ・コード」ダン・ブラウン (角川文庫)



 映画にもなった世界的な話題作「ダ・ヴィンチ・コード」です。私は原作よりも先に映画をすでに観てしまっていて、そのせいか小説の方はずっと手つかずになっていました。
 大方のあらすじ、最後のどんでん返しがわかってしまっている小説など、読んで面白いものか。そういう気持ちから、なかなか読む気になれなかったのです。

 ところが図書館でこれを見つけた時
「あらすじやオチが分かってるけども、どうせタダ。一度読んでみてもいいか」
 ということで借りて読んでみたのです。

 正直驚きました。これまでは推理小説の類を読んでも、どこか楽しめないところがありました。ところがこの「ダ・ヴィンチ・コード」は先が分かっているにも関わらず、面白い。これが推理小説なのか。そんなことを思いながら楽しんで読み進めていけたのです。

「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」
 「ダ・ヴィンチ・コード」は冒頭のこの文言のため、議論を呼び起こすことになったそうです。本作品中で語られる、キリスト教に関する一説に対して否定的立場の団体や個人からの攻撃の的となったんですね。
 実際のところは「すべて」が事実に基づいているわけではなく、想像上のものもあるようです。ですが、事実を一つ一つ積み上げていく中で出てくる空白部分を、想像で埋める形での小説というのはやはり面白い。そこには推理小説という枠を超えて、歴史ロマンのようなものさえ感じられます。


 殺人の容疑をかけられるも、警察の手から逃れる主人公。被害者が残した謎を解いていくことで、自らの無実を証明できるのではないか。そんな思惑から聖杯の謎へと挑んでいくあらすじです。この謎を解いていくさまが推理小説として非常に面白い。
 また、警察の追跡が迫る中で長年の歴史の謎を、事件に巻き込まれてからわずか24時間以内に解いていく。このようなひっ迫した状況から湧いてくる緊迫感にも注目できます。

 映画と小説を比べるというのは、もしかすると意味のないことかもしれません。ただ私と同じように映画をもうすでに観てしまった。小説の方は読む気が起きない、という方には是非読んでもらいたい一冊かもしれません。

 映画ではターミーネーターのごとく、主人公たちに迫ってくる「シラス」という青年。この物語は、この「シラス」こそが本当の主人公であったかもしれない。
 人はなぜ生きるのか。
 この問いに対して、科学は答えてくれない。科学の世界では生きる意味や価値といったものは自分で見つけ、作り上げていくことになります。そうして自分の生を実践していくしかありません。

 対して宗教の世界においては、その意味や価値は神という存在によって保証されています。その教義に沿って生きることで満足を得ることができます。
 神や仏なんぞ迷信だ。人間が理解できないものに対して、その理由を捏造するために用意された偶像にすぎない。
 そう思われる方もいるでしょう。
 また、逆に神がいないという証明も科学ではできない。だからやはり神なる存在はある、と考える方もいると思います。

 「シラス」という青年を考える時、どちらの立場で考えるかで、がらっと印象が変わってくると思います。
 宗教というまやかしに翻弄された、愚かしく哀れな青年と見るのか。神を信じることで、はじめて手に入れた幸せを守ろうとした、誠実で真摯な人間として見るのか。
 映画では、この「シラス」をそこまで掘り下げて描かれてはいません。深く掘り下げてしまうと主人公に取って代わってしまう。映画として狙った面白みがぶれてしまう恐れの方が大きい。故に小説ほどには彼の生い立ちなどは描かれていません。
 映画としては、それで正解だったかもしれません。もし「シラス」を掘り下げて描いてしまえば、それは娯楽映画ではなくなってしまっていたでしょうから。

 宗教や神という存在は時として、また人によって必要なものである。他者と世界に対して、人として向き合えることで得られる幸せや充足感。そんなことも、さらっと考えさせてくれる小説でもありました。